第20話 長谷川泰と「済生学舎」 ~私立医学校の興亡 (5) ~

講師の実態

日本医事新報社『近代名医一夕話』(1937年)に収められた「長谷川泰先生」は、済生学舎の講師・生徒だった人々が長谷川と済生学舎について回想した座談会の記録である。この座談会と、吉岡弥生の自伝(『吉岡弥生先生伝』1941年)を参考にして、済生学舎の実態をみてみよう。

まず明治21年(1888年)から2年間外科を講義した芳賀栄次郎(陸軍軍医中将)の証言。芳賀は明治20年(1887年)12月付で東大を卒業し、大学院に進学した。そのころ済生学舎では外科担当の講師が辞めて欠員が出た。

その時長谷川先生が私の宅へ来られたのです。私はまだ小僧で学校は出たてだし、両親がいたので家は一軒借りていましたが、本郷西片町十番地の私の所へ来られて「やってくれないか」と言われた。そして申さるるには、「私の所など医学校とはいうけれども大道店なんだが、君らの力によって生徒を作ってみたいから」ということで、大いに感激しつつお受けしたわけであります。力はまだ乏しかったのですが、とにかく大学のスクリバさん(東大で外科を担当したドイツ人医師)の助手をしているのだから、それを受け売り的にやればよいという考えで、毎朝七時頃から外科通論を一時間ずつ講義していました。

大学を卒業したばかりの若い学士の家まで長谷川校長自身が来駕して出講を要請する、このように人脈とフットワークで講師を集めた。

講師陣は大学などとの兼任者、つまり非常勤講師であるから、早朝や夕刻に講義をした。吉岡弥生によると、東大との掛け持ちの田代義徳の講義は、朝6時からだったので、寝間着の上に褞袍(ドテラ)を重ねた着流しのまま講義し、その後に朝食をとって大学に出勤した。眼科の保利眞直は陸軍軍医だったので毎日曜日の朝8時から11時まで3時間だけの講義だった。

所詮「大学の先生の内職の稼ぎ場」(吉岡)だから、入念な準備をして講義に臨んだわけではないようだ。入沢達吉は言う。

元来講師は前の晩の八時に覚えて来て、翌朝の八時に生徒に講義するのだから、生徒と先生との時間的差異は十二時間しかないのだ。そこへ色々の質問をされるからどきまぎする。少し押しの弱い奴は出られない。

そんな「押しの弱い」ある講師が辞めた際に、長谷川校長は、「質問厳禁にしましたから」ということで呼び戻したという。

芳賀によると、講義に必要な器材は講師が持参した。

当時、済生学舎には何もなく、すべて大学の教室から持って行ってデモンストラチオンするという調子でした。長谷川先生も若い先生方を頼みにされたが、若い先生方も器械でもなんでも大学から持ち出して来るというふうで、外から見たよりも内容は充実していたと言ってよいと思う。
東京ガーデンパレス

東京ガーデンパレス
済生学舎は明治15年から廃校までこの地にあった。
向かい(写真左端)は東京医科歯科大学3号館

このように非常勤講師中心に済生学舎の講義はなされたのであるが、専任の講師もいたことは付け加えておくべきだろう。

石川清忠は済生学舎の第1期生で、当時はドイツ語の原書を教科書として使用していたのでドイツ語によって医学を学んだ。医術開業試験に合格した後、明治10年(1877年)12月に愛媛の松山病院付属の医学所にドイツ語の講師として赴任したが、3年後には済生学舎講師となった。石川は済生学舎廃校の後、学生救済のために「同窓医学講習会」で講義を続け、それが日本医科大学のひとつの源流となった。

山田良叔(りょうしゅく)は済生学舎の第3期生で、明治10年(1877年)に入学し12年に開業試験に合格し、長谷川に見込まれて済生学舎の講師となった。石川同様にドイツ語の原書で学んだので語学力を活かしてドイツの医学書を多数翻訳した。第16話で引用した斎藤茂吉の回想にある「山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』」とあるのも山田の訳書である。版を重ねて広く読まれたようだ。石川清忠の「同窓医学講習会」から分かれた「私立日本医学校」(明治37年開校)の講師陣に山田の名前が見えるが、明治40年(1907年)に病没した。

石川と山田については吉岡弥生も言及している。印象に残る講師として、東大卒の非常勤講師の名を何人か挙げたあとにこうある。

生理の山田先生は、繃帯の石川先生とともに、済生学舎の生え抜きの講師として、また長谷川先生の腹心の部下として、学校のために尽くされた方で、講義はよくわかりましたけれども、大学派の先生にくらべてみると、その内容がやや低調で、演習の指導にも覚束ないところがあり、独学者の欠点が、私どものような者にまで感じられました。

済生学舎廃校後に立ち上がった「同窓医学講習会」から大量の脱会者が出るのは、「私どものような者」にもわかる石川の技量不足が一因であったらしい。