製糸業の発展と大屋病院
こう述べてくると、医者のいない、さびれた片田舎の地域医療のための献身的奉職、というイメージになる。しかし、当時のこの地域の状況は若干違っているようだ。
大屋病院開設の背景には信越本線大屋駅(現・しなの鉄道大屋駅)の開業が関係しているだろう。鉄道が来て、駅ができて、周辺地域が発展する、それにあわせて病院ができ、医師が招かれたという構図である。
信越本線が、最大最後の難所である碓井峠越えの横川・軽井沢間が開通して上野駅まで(貨物は赤羽・品川を経由して横浜駅まで)全面開通したのは明治26年(1893年)のことだった。日本の重要な輸出品である生糸は、かねてから養蚕が盛んだった長野県で多く生産された。特に器械製糸が早くから導入された諏訪・岡谷地方で製糸業が盛んとなり、そこでできた生糸は、かつては甲州街道で八王子へ運ばれそこから横浜街道で輸出港の横浜をめざしたのだった。ところが信越本線が開通すると、生糸は牛馬に牽かれて和田峠を経由して田中駅へ運ばれ、そこから横浜まで鉄道輸送されるようになった(中央本線が諏訪・岡山まで伸びるのは明治38年である)。製品としての生糸、その原材料としての繭の輸送は鉄道によって革命的に効率化された。
諏訪・岡谷の製糸業者たちは、田中駅よりさらに至便なところに新駅設置を請願し、明治29年(1896年)1月20日、上田駅と田中駅の中間に大屋駅が開業した。大屋駅は繭と生糸の集散地、「『鉄(くろがね)』のシルクロード」(老川慶喜『日本鉄道史 幕末・明治編』)の重要な中継地となった。
信越線開通・大屋駅設置によって今度は、大屋の南隣の丸子村(現・上田市丸子地域)で製糸業が発展した。丸子村に初めて製糸工場ができたのが明治22年(1889年)だったが、信越本線開通後の明治27年(1894年)には9工場が稼働、大屋駅開業後の明治30年(1897年)には15工場で469人の職工が働くようになった(神立春樹「丸子製糸業地域の形成」)。明治45年(1912年)の旅行案内の「大屋驛」の項にはこうある、「近年この地は丸子町に製糸場の設置されしより、規模の宏壮と業務の隆昌とは、岡谷の製糸場と相拮抗して、既に北信第一の称あり」。
大屋病院の開設、山本一郎の着任は、こうした近代化の波が押し寄せてきた時代を背景としていたのである。
(第16話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)