第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~

「医家書生」という種族

医術開業試験の合格者数の第1位は済生学舎である。この私立医学校については後に詳しく述べることになる。これに次いで合格者が多いのは「開業医家塾学生」という分類である。これはどういう「学生」を指すのだろうか。

「家塾」とは塾的学校という意味ではない。開業医宅に住み込み、書生をしながら医学を伝受しつつ医術開業試験合格を目指す、いわゆる「開業医門下寄宿生」であり、一般には「医家書生」と呼ばれた。手っ取り早く医師になれるのが私立医学校だが、そこへ納める月謝や上京しての生活費にこと欠く者が医師をめざす、究極の経済的方法が「医家書生」である。天野郁夫氏の『試験の社会史』には、「開業医のもとに書生として住み込み、徒弟的な訓練をうけるというのは、受験準備のひとつの、とくに明治初期には重要な道であった」とあるが、明治も20年以上経過してもこのルートはまだまだすたれていなかったのである。

明治21年(1888年)3月、多くの公立医学校が廃止された。それもあってこのころ医家書生が増えたという事情もあるだろう。「地方税をもって医学校を設立することを禁じたりければ、多数の医学志願者はとみに就学の便を失い、あるいは設備不完全の私立学校に入り、あるいは開業医の門下に無規律の独習をなし内務省の試験及第を僥倖し…」(長与専斎『松香私志 下巻』)という状況だった。

斎藤茂吉の見た「医家書生」

公立医学校廃止から10年以上後の話である。斎藤茂吉の随筆「三筋町界隈」に「医家書生」が描写されている。随筆の冒頭に「この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当る」とあるから、明治30年代前半のことである。斎藤茂吉は山形県南村山郡金瓶村(現・上山市)の農家・守谷伝右衛門の三男として生まれたが、明治29年(1896年)に上山小学校高等科を卒業して、同郷出身で、東京で開業医をしている斎藤紀一の「養子候補」となり、14歳で上京した。その養父の斎藤医院は浅草区東三筋町54番地(現・台東区三筋一丁目)にあった。茂吉は明治35年(1902年)第一高等学校に入学して寮生活に入るので、上京以来それまでの三筋町での思い出を綴った随筆である。

斎藤医院は何人かの医家書生を抱えていた。その生態を茂吉は描写するのである。この随筆が書かれたのは昭和12年(1937年)で、医術開業試験が廃止されてからすでに20年以上経過しているので医家書生も存在していない。そこで茂吉は、まずは絶滅した医家書生なるものの存在理由から説明してくれている。

当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。

茂吉の養父・斎藤紀一 国立国会図書館『大正六年衆議院要覧下巻』より転載

茂吉の養父・斎藤紀一
国立国会図書館
『大正六年衆議院要覧下巻』より転載

首尾よく医者になった者もいただろうが「なりはぐった」者もいたのはどうも書生たちの生活態度が甚だ軟弱だったからのようだ。「服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑の眼を以て見られた向きも」あり、「着流しのじゃらじゃらと、吉原遊里の出入」もあったという次第である。「少しも医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六もの、涙香もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた」のである。

なお、山田良叔(りょうしゅく)とは済生学舎を卒業してそのまま講師になった人で、ドイツのランドア博士の生理学の著書を訳したのが『蘭氏生理学』で、「生殖篇」はその中の最終篇「生殖と発達生理」のことである。「浪六」とは村上浪六(なみろく)で、通俗大衆小説を書いた。黒岩涙香(るいこう)はジャーナリストであるかたわら、『鉄仮面』、『巌窟王』、『噫(ああ)無情』などを翻訳し、自らも探偵小説を書いた。

開業試験が近くなると、父は気を利かして代診や書生に業を休ませ勉強の時間を与える。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集って喧囂を極めている。中途からの話で前半がよく分からぬけれども何か吉原を材料にして話をしている。遊女から振られた腹いせに箪笥の中に糞を入れて来たことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいても少しも邪魔にはならぬらしい。その夜更けわたったころ書生の二、三は戸を開けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目に見ていた。

少年茂吉には、こうした落ちこぼれ連中が特に強い印象を残したと見える。

次項では、勤勉に努めて医者になった例を見てみよう。

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