第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~

医家書生から医師になった山本鼎の父

森鷗外の『カズイスチカ』は明治44年(1911年)に発表されたが、述べられているのは鷗外が東京大学医学部を卒業する前後のころ、明治10年代半ばのことである。父親・森静夫も医者で、東京・千住で開業をしている。鷗外は休暇の時にはここに来て、たまに診察もした。その医院に「佐藤」という青年がいた。

若先生に見ていただくのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かの紐とを、随分気長に解いている。
「先生がご覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように言っといたのですが」
と、佐藤は言い訳らしくつぶやいた。掛布団もない寝台の上でそのまま待てとは女の心を知らない命令であったかもしれない。

この青年は、代診もするし下働きもする、住み込みの書生で、医術開業試験の合格をめざしている「医家書生」である。

この佐藤について、鷗外の長男・森於菟はこう述べている。

ここで祖父の代診というので一筆この機会に附加して置く。これは後来父の伝記を編む人のある場合幾分の貢献をするかも知れないからである。それは主として山本一郎という信州の人で後に長野に帰って長く開業し今年(昭和七年)四月に卒した。この人の長子が洋画家の山本鼎である。(「我家の診療史」)

「佐藤」とは画家・山本鼎の父・山本一郎のことだと明かしてくれているのだが、「信州の人」というのは思い込みによる間違いである。医師になって長野県へ行ったので、そこが郷里だと勘違いしたのだろう。医師名簿である『日本医籍録』(大正14年)には「安政6年5月8日生、愛知県出身」とある。

山本一郎の父は旗本の入江山城守喜右衛門だが、戊辰戦争で妻と共に戦死した。孤児となった一郎は母方の里の岡崎に赴き、そこで藩医・山本良斎に拾われ、やがて良斎の娘・タケの入り婿となった。一郎は養父と同じ医師になるために医術開業試験合格を目指して、鷗外の父の医院の書生となったのである。『カズイスチカ』の描く時代には23,24歳で、鷗外より3歳年長である。山本一郎が医術開業試験に合格したのは明治31年(1898年)、39歳であった。10年以上の修行時代を経てのことだった。

山本一郎が長野県神川(かんがわ)村大屋(現・上田市大屋)に移住したのは、知人の斡旋によるらしい。明治29年(1896年)11月、上田町の医師・横関衛胤らの尽力で神川村月夜平に大屋病院が開院した。山本は知人の紹介でこの病院の常駐医師として明治32年(1899年)に着任したのである。その知人とは原田亥三太で、済生学舎出身であるから、山本とはこのあたりで接点があったのだろう。斎藤茂吉の随筆にあったように、医家書生も後期試験対策ではやはり済生学舎に頼らなければならない。山本も、次話に見る野口英世と同様に、済生学舎の臨床講義を受けた可能性はある。原田は、明治30年(1897年)に医術開業試験に合格、翌年故郷の県村(あがたむら)加沢(大屋から東へ約5㎞。現・東御市)で開業していた。この人はのちにこの地域(小県郡)の医師会長になっている。あるいは(想像だが)大屋病院の話は、初めは原田に話があって、原田がこれを辞退して、山本に任を譲ったのではないだろうか。

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