第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~

医術開業試験の開始で簇生する私立医学校

落語の「死神」は、破産した男が死神に勧められて医師の看板を掲げることから始まる話である。この落語は初代三遊亭円朝の作らしいが、いきなり医師を名乗ってしまうのは落語の中だからからだとは言え、江戸時代までは医師になるのは基本的には自由であった。「幕末には蘭方又は漢蘭折衷の医学を教授するところがかなり存在していた」(厚生省医務局編『医制百年史』)ので、何らかの形で医学教育は行われていたが、医師の資格試験制度や免許制度はなかった。「医師という職業には,藩により多少の相違はあったものの、何ら開業するための資格を必要とせず、僧侶とともに身分制の枠外に位置しており、およそ『傷寒論』の一冊も読み、処方の二、三も暗じていれば、どのような者でも参入が可能であった」(橋本紘市「近代日本における専門職と資格試験制度」)という状況である。

明治新政府は、こうした無秩序状態の解消と、漢方医学から西洋医学への切り替えを目指した。

明治7年(1874年)に公布された「医制」では、医術開業は免許制となることが定められ、そのための医術開業試験が行われることが予告された。試験は西洋医学による出題であるから、全国に3万余人いた漢方医は廃業を余儀なくされるかとパニックになったが、実際は、従来から医師として開業していた者には医師資格が与えられた。当時8割を占めた漢方医がいなくなるような事態は政府としても望まないことであるから激変緩和措置がとられたのである。

明治8年(1875年)医術開業試験は三府(東京、京都、大阪)で先行実施された。試験科目は、物理学化学大意、解剖学大意、生理学大意、病理学大意、薬剤学大意、内外科学大意である。問題難度は高度ではなかったようだ。この制度を設計した文部省医務局長・長与専斎の回想には「受験者には落第も少な」かったとある。翌年には試験は全府県で実施するようになる。ここまでは試験的実施だったようで、長与は「試験法の試験とも言うべきもの」と言っている。

明治12年(1879年)2月「医師試験規則」が定められる。それまで府県ごとに作られていた試験問題は内務省(管轄は明治8年に文部省から内務省に移った)が作成したものを府県に送付し、答案は内務省に集められて一括して採点がなされるように変更、また試験科目の変更もあった。

しかし、この方式では試験実施から結果発表・免許交付まで半年もかかったため、明治16年には新たに「医術開業試験規則」を制定して、試験制度の大改革を行った。実施面では、試験は年2回実施し、試験地は9カ所(東京、名古屋、仙台、岡山、大阪、松山、弘前、金沢、長崎)に限定された。答案は現地で採点して、及第証書が交付された。試験の内容面ではレベルアップが図られた。試験は前期と後期に分かれ、同時に受験はできない。前期は基礎科目、後期は臨床科目と臨床実験(実技試験)である。受験資格も新設され、前期は1年半以上医学を修学した者、後期は更に1年半修学した者とされた。受験者は出願時に修学履歴証明書を提出する。この試験規則による新しい開業試験は明治17年(1884年)から実施された。「前期3年、後期7年」と言われる難関試験体制ができあがったのである。

それでもこの試験は高い開放性を持っているという性質は変わらない。受験資格に学歴は不問である。ただ一定期間の医学修学があればよい。修学履歴証明書は個人教授をした医師が書いたものでもよいのである。

このように、医術開業試験は、比較的易しい問題で始まり次第に試験レベルの高度化が図られ、府県まかせで始めた試験的段階から、中央政府の統制下に取り込んで行く、というのが明治17年までの変遷である。