公立医学校突然の消滅
こうして公立医学校は医学士を3名以上確保して甲種医学校を目指すことになる。財政的に厳しい県では乙種に甘んずることになるが、それでも1名の医学士が必要だった。
ところが、この制度ができてからわずか5年で、政府の公立医学校育成の方針は180度転換してしまう。地方税を医学校の運営にあてることを禁ずる勅令第48号が出されたのである。
この結果、公立医学校のほとんどが廃校になったのである。全国に設置された公立医学校を廃校に追い込んだのはこの勅令であり、文部大臣・森有礼の中央集権主義思想であると言われることもあるようだ。
ところが、公立医学校廃止の校数を年度ごとに集計すると右表のようになる。明治20年の10校中の5校は官立の高等中学校医学部に転換されたものである(仙台、千葉、金沢、岡山、長崎)。そして地方税支弁禁止の勅令によって廃校となったのは明治21年の10校だけなのである。
なお表中の「以後も存続」の3校は、愛知、京都、大阪の医学校である。大都市にあるこれらは病院の収益を利用することで、地方税支弁がなくとも医学校経営ができたため存続できた。愛知、大阪の2校はその後官立に移管されて現在の名古屋大学、大阪大学の医学部となった。公立のままで現在まで存続してきたのは京都の1校のみ、つまり現在の京都府立医科大学である。
公立医学校の廃校は勅令以前に徐々に進んでいたのである。勅令第48号は、経営不安定な公立医学校の整理という側面もあったのである。比較的優良な5校を選んで官立に移管させて、教育水準を引き上げる処置もした。
では勅令以前に公立医学校が廃止されていった理由はなんだろう。地方政治、医学校通則、財政政策に関した次の4点があげられる。
- 1. 地方議会が開設され、予算に議会の承認が必要になった
- 明治11年地方三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)が制定されて、「府県会規則」により、公選議員からなる府県会が設置され、地方税により支弁すべき経費についての議定権が付与された。
- 2. 医学校運営には多大な経費がかかるようになった
- 医学校の設置・運営の費用はもともと多額なものだったが、明治15年の「医学校通則」以降は更に経費が膨らんだ。前述のように、医学校として認められるためには少なくとも甲種は3名、乙種は1名の医学士を雇用しなければならず、彼らに破格の高給を支払わなければならなくなったのである。
- 3. 三業賦金(前述)の使途の変化
- 賦金は県令(県知事)の裁量財源だったが、山縣有朋の内務卿就任(明治16年)以降、賦金は警察関係費に多く充てられるようになり、病院関係費は大幅に削られた(伊関友伸の前掲書)。
- 4. 松方財政で地方財政が悪化した
- 明治14年、大隈重信に代わって大蔵卿に就任した松方正義は、大量に出回っていた不換紙幣の整理のため、緊縮財政を推し進めた。歳出抑制のためそれまで国庫負担だった諸事業を地方負担とするようになり、デフレによる税収減も相俟って地方財政は急速に悪化した。
これらの時代の変化の波に抗えず、勅令という強硬手段が下される前に多くの医学校は廃校になっていった。そうした不安定な医学教育体制を立て直すためにこそ勅令第48号は発せられたとも言える。
冒頭で参照した『明治教育史』はこう総括している(大意)。
政府が、地方税で維持する公立医学校の設立を禁止して5校の官立医学校を設立したのは「非常なる英断」で、これにより医学教育の面目は一新された。(中略)松方財政は小学校の就学率を低下させるほどの不況をもたらしたので、各府県は医学校経営よりも小学校教育に全力を傾注すべきであると判断した政府が、不完全な公立医学校を廃止して少数の官立学校で統一水準の秩序ある教育を施そうとしたのである。だから5つの高等中学校医学部は、公立医学校が互いに合併して少数となったものと言ってもよいのである。
次回は、廃校となった公立医学校の具体的状況をみることにしよう。
(第9話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)