「ほとんど病院無きの府県はなく…」公立医学校の設立
一旦は壊滅した藩立医学校だったが、その後各県立の医学校が次々と設立される。下グラフは本稿の「エピローグ」に掲載したものだが、明治10年代に公立医学校が急増し、明治20年過ぎにほとんどが廃止されてしまうという、めまぐるしい転変があった。このほぼ10年間の経緯を辿ってみよう。
廃藩置県の大改革の後、県政が次第に安定してくると、県立の病院を設立する動きが活発化する。東京医学校(東大医学部の前身)校長、衛生局初代局長を務めた長与専齋は当時のことをこう回想している(『松香私志』)。
いずれの地方においてもすでに廃藩の当時より良医の欠乏を告げ、牧民の職にある者、ことにこれを補うの必要を感じければ、都下の医師を聘して病院を設置すること一時の風潮となり、(明治)十年の頃にはほとんど病院無きの府県はなく…
伊関友伸『自治体病院の歴史』は、この時代に公立病院が相次いで設立された理由・背景として次のことを指摘する。
- 教場を付設して西洋医を養成することで、医療と人材養成の両立が期待された
- 伝染病対策や娼妓の検梅(性病検査)など、公立病院ならではの業務が存在した
- 長与の引用文にもある、県令たちの牧民思想
- 公立病院経営の財政的裏づけがあった(地租改正で土地の税金が地方税から国税に変わったが、一方で秩禄処分によって旧藩家臣の給与支出は必要なくなり、県の財政には余裕があった、また三業(料理屋・待合・芸者屋。いわば風俗営業)から徴収する賦金を病院経営に充てることもできた)
病院附属の医師養成所はやがて独立して公立医学校となる。こうしてほとんどの府県に公立医学校が設立され、病院は医学校附属となった。次ページの表は当時の文部省年報に記載されている公立医学校の一覧である。この他にも病院附属の教場が存在していて、坂井建雄「明治初期の公立医学校」のリストにはこの他に、山梨、浜松、堺(大阪)、高松の4校があげられている。
公立医学校の設立・発展は、医師免許制度の整備の過程と深く関係しているので、ここで明治初期の医師免許制度の変遷をまとめておこう。
明治7年 | 「医制」の公布、医師開業は許可制を採ることとした |
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明治8年 | 東京・京都・大阪で医師開業試験実施 |
明治9年 | 各県での医師開業試験実施要領を通知、試験実施は11年までに全国に拡大 |
明治12年 | 医師試験規則を制定し、試験の全国統一化が図られる |
明治15年 | 医学校を甲種と乙種に分け、甲種医学校卒業生は試験を要せず医術開業免状が下付されるようになる(太政官布達第四号及び医学校通則) |
公立医学校の早いものは明治6年ころから設立されているが、設立が相次ぐ明治10年台とは、医師免許制度の整備過程と重なっていることがわかる。医学校は当初は、医師開業試験に合格するための資格予備校的な性格が強かったが、明治15年以降は甲種医学校の卒業者は自動的に医師免許を取得できるようになった。甲種医学校にとってはありがたい制度であるが、甲種となるためにはカリキュラム・設備・教員などに高い水準が求められた。西洋医の養成を急ぎたい政府が、公立医学校を育成し、かつ医学教育の水準引き上げを図る方針を採ったのである。