第6話 ミュルレルの着任と相良知安の晩年〜医学教育体制の整備〜

相良知安の寂しい晩年

明治4年の時点に戻る。冤罪で獄にある相良の不在の時期、佐藤尚中と岩佐純が校務を管掌してきたが、佐藤が去り、また岩佐も宮中侍医を兼ねていたため、校長には相良の股肱の臣とも言うべき長谷川泰(たい、やすし)が就いた。10月相良が復帰してくると長谷川は校長職を相良に譲った。しかし相良の校長職は長くは続かなかった。明治7年[1874年]9月、相良は校長を突然解任された。12月には250円の賞賜金が支払われた。

相良の後任は長与専斎である。長与はすでに述べたように(第2話第3話)、適塾で学んだ後、長崎でポンペやマンスフェルトに教わった。その後岩倉遣外使節団の一員として米欧の医学・衛生行政の視察をし、帰朝後は文部省医務局長となっていた。校長職との兼務は困難と固辞したが説得されて就任した。

なぜ相良が解任されたのかは分からない。明治六年の政変で下野した江藤新平との関係を疑われたとか、依然として土佐藩から恨まれていたとかの理由が挙げられている。しかし前述の長与の回想によれば、岩倉使節団の欧米視察から帰国した田中不二麿が文部大輔(現在の文科相)になって省内刷新を図ったことが背景にあったようだ。「気骨稜々たる圭角ある大議論家」という相良の人物・性格も問題とされたようだ。協調性に欠ける元々の性格が、1年間の入牢によって、任務遂行に支障を来たすほど悪化したのではないかとも言われる。

晩年の相良は辻占をして芝神明町に住み明治39年[1906年]に没した。昭和10年[1935年]、入澤達吉、長与専斎らによって本郷の東大構内に「相良知安先生記念碑」が建立された。現在は鉄門を入って右奥の東大病院入院棟前にある。長与によるその碑文にはこう書かれている。

先生、人為(ひととなり)剛毅果敢はなはだ才幹(さいかん)あり。しかも狷介孤峭(けんかいこしょう)極めて自信に篤(あつ)し。これを以って世と相容れず。轗軻(かんか)その身を終う。深く惜しむべきなり。

(大意)相良先生は、その性格は剛毅で果敢、物事の手際よい処理に手腕を発揮した。しかし片意地で、極めて自信家であったことが災いして、周囲と対立しがちで、不遇のうちにこの世を去った。非常に残念なことだ。

東大医学部の建設期が終わるとともに相良知安の時代も終わった。

(第6話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)