第6話 ミュルレルの着任と相良知安の晩年〜医学教育体制の整備〜

ボードウィンと上野公園

ボードワン博士像(上野恩賜公園)

ボードワン博士像
(上野恩賜公園)

大学東校では、ドイツ人医師の雇入れについて、政府への伺書で「プロイセン国より盛学の医官二人英語を以って教授いたしそうろう者」を希望するとした。こちらの生徒は英語に熟達しているから英語で講義をするドイツ人がほしいと言うのである。なんとも奇妙な要求である。ドイツ医学の優秀さを熱く主張したが、その教育態勢についてはあまり考えていなかったように見える。実際に来日した二人のうちミュルレルは英語で講義をしてくれなかった。教員の中にいた語学の天才司馬凌海(盈之=みつゆき)の通訳で講義がなされた。

こちらでは明治3年[1870年]に着任を希望していたが、ちょうどそのときドイツでは普仏戦争(1870〜1871年)が勃発して当面は来日できなくなった。ウィリスはすでに鹿児島に去った。外国人教師不在の彌縫策として、相良と岩佐はボードウィンに講義担当を依頼した。長崎の精得館でポンペの後任となったあのアントニウス・ボードウィンである。

精得館を辞した後のボードウィンは、オランダに留学する緒方惟準(いじゅん、これよし)、松本銈太郎(けいたろう)を伴って離日したが、幕府が江戸に設置するはずだった海軍医学校に参加するために、多数の実験資材を買い入れて再来日した。しかし幕府は倒れ、新政府はその計画を引き継がなかった。代わりに政府は大阪に設立した「仮病院」(大阪大学医学部の起源)の教師としてボードウィンを招聘した。明治2年[1869年]のことである。その翌年大学東校の相良と岩佐は、任期が切れて帰国する直前のボードウィンに頼み込んで、外人教師不在の間のショートリリーフをしてもらったわけである。今は捨て去ろうとしているオランダ医学を穴埋めに使ったのである。ボートウィンは明治3年[1870年]の7月から約2ヶ月間講義をした。

その頃のある日のことである。ボードウィンは石黒忠悳、司馬凌海に伴われて上野を散策した。石黒は、この上野の山が大学東校の校地となることを得々と話した。相良知安の奮闘でこの年の5月に決定した新築移転計画である。

これに対しボードウィンは「こんな幽邃な土地を潰して学校や病院を建てることは途方もない謬見である」と反対し、「東京一の公園」にすべきだと主張した。時を移さず彼は、オランダ公使を通じて政府にその旨の忠告書を提出する。やがて政府は大学東校の移転認可を取り消し、上野の公園建設を決定した。大学東校には代替地として本郷の加賀藩上屋敷跡を与えた。

現在東大が本郷にあるのも、上野公園が存在するのもボードウィンがショートリリーフで講義をさせられたからである。更にその遠因は、ドイツ人医師の着任を遅らせた普仏戦争の勃発であるということになる。なお、上野公園の歴史を語る際にはボードウィンは「ボードワン」と表記される。現在公園にある胸像もそう表記されている。

そして余談だが、上野公園の「ボードワン像」は1973年に設置されたが、それは実は弟のアルベルト(第3話参照)の写真をもとに作成した像だった。医学史研究家らの指摘を受けて、2006年本人の写真による今の銅像に据え代えられた。弟の像はどうなったのだろうか…。