ミュルレルの改革
明治4年[1871年]7月、「大学」が廃止されて「文部省」が設置されたため、「大学東校」は「東校」と改称された。普仏戦争が終結してドイツ人教師が着任したのはその年の8月だった。陸軍軍医のミュルレルと海軍軍医のホフマンである。
彼らが東校にもたらしたものは厳格・厳正・規律だった。その当時の東校での教育の実態について入澤達吉(東京帝国大学医学部長)の『レオポルド・ミュルレル』から引用しよう(『東京大学百年史 通史一』からの孫引き)
ミュルレル等が着任した時にはおおよそ三百人の学生が医学校にいたが、彼等は大きな机に十人ないし十六人宛て坐っていた。銘銘が皆一つ宛ての火鉢と、煙草や煙管とを持って席についていた。その大机には机ごとに一人の監督が坐を占めていた。学生は当時ヒルトルやヘンレーの解剖書をひもといていたが、これを解するに通訳の助けを借りてもなお困難であった。(略)その頃の医学教育ははなはだ無秩序であって、解剖や整理の知識が全く欠乏していながら、すぐに臨床医学に取り付いたのてあった。心臓病の講義を聴いている学生が、まだ血液循環の理すら会得していなかったのであった。
つまりは、幕末に松本良順がポンペから伝えた系統だった教育方式は忘れ去られ、旧式の寺子屋式教育(あるいは「適塾的学習」)が復活していたのである。
大改革が始まる。9月学校は一旦閉校し10月に再開された。これは、上の入澤の記述にあるように、当時の学生の素質・学力に問題があったため、全員を退学させ、優秀な者のみを改めて入校させるためであった。
また、それまでは正則、変則の2課程があったが、変則課程は廃止されて、本科5年、予科3年(翌年「2年」に改定)の課程だけとなった。変則課程廃止に反対して佐藤尚中が校長を辞めたことはすでに述べた。
ミュルレル、ホフマンは本科教師となり、予科ではシモンズ(ミュルレルら着任の前に医学を担当)、ワグネル(大学南校の教師)が自然科学やラテン語、ドイツ語などを教えた。
ミュルレル、ホフマンの任期は明治7年までで、後任としてシュルツ、ウェルニヒが来日、明治9年にはベルツが来任した。こうして外国人教師は次第に数を増し明治10年には11名を数える。東大医学部の拡大過程は、他の官立医学校(大阪と長崎)の廃校と重なっている。教育水準を高め維持するため、官立の医学教育を東京に集中させていく方針が採られたのである。この方針は、明治5年8月の学制が発布された直後に文部省から正院に提出された計画書にすでに書かれているが、詳細は第8話に譲る。
こうして始まった厳格な医学教育が始めての卒業生を出すのは、東京医学校時代の明治9年の25名である。彼らは明治4年の学制改革の際本科に編入された者で、医学士の学位は与えられなかった(ただしのちに「準医学士」の称号が与えられ、明治20年には継続して医業に携わっているものは「医学士」となれた)。ミュルレル、ホフマンの制定した新カリキュラムの全課程を修了して医学士としての卒業者が出るのは明治12年10月の18名である。すでに東京大学医学部となっており、校舎は本郷に移転していた。
なお明治4年に廃止された変則課程はその後、長与専斎が校長だった明治8年、医学通学生制度(のち医学別課生制度)として復活する。長与も臨床医の速成が喫緊の課題と認識していたからである。
この別課生制度は明治18年に募集停止となり3年後に廃止された。それは、医学校の設置基準を定めた医学校通則と、医師免許規則・医師試験規則が制定されて、医師速成の役割を全国の公立医学校に任せられる態勢ができあがったからである。