明治2年の医学校のようす
石黒忠悳(ただのり)は越後の医家の出身で、慶応元年に江戸の「医学所」に入学した。戊辰戦争が起こると医学所は解散になり、石黒は故郷に引き上げた。明治2年、自著の出版のために再び上京した際の医学所の様子をこう回想している。
さて、東京に来て見ると、以前私共のおった医学所の近所の藤堂邸が大病院と称する官軍の病院になり、医学所はこの病院の付属物の形になっています。そして長官には薩州の石神良策氏がおり、実地医療のことについては、英人ドクトル・ウリース氏が主となっており、学校の方には旧同窓の足立寛、田代基徳氏等も見え、先輩の島村鼎、坪井為春、桐原真節の諸先生もおります。また病院の方には池田謙斎、奥山虎炳、安井玄達(清儀)、佐々木東洋の諸親友がおりました。(『懐旧九十年』)
要するに、教師も生徒も石黒の顔見知りだったわけだ。幕府管轄から明治新政府管轄になったが人員はほとんどそのままであり、変わったのは事務長(取締)に薩摩藩医の石神良策が就いていたこと、医療はウィリアム・ウィリスが中心となっていたことである。
鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩が京都に置いた軍陣病院では、英国公使パークスの売り込みでウィリスが無償で診療した。それがきっかけとなって、前述のように「横浜病院」、そして東京の「大病院」で診療を行っていたのである。
石神良策は、明治政府から任命された取締としては3代目である。東京大学医学部ホームページの「歴代医学部長」には頭取・松本良順のあとに任期の短い「取締」が3人並んでいて、3人目が石神である。先任の2人について簡単に述べよう。
まずは慶応4年7月、薩摩藩医でモーニッケから牛痘法を学んだことのある前田信輔(杏斎)が取締となった。しかし取締不行届きのため解任され、後任には緒方惟準(いじゅん、これよし)が指名された(明治元年10月)。惟準は緒方洪庵の実子で、長崎の精得館でアントニウス・ボードウィンに学び、帰国する師に伴われてオランダのユトレヒト大学に留学したことは第3話で述べた。留学から1年もせずに幕府が倒れたので帰国した。
京都の宮中の典楽寮医師となってすぐの明治元年9月、天皇に供奉して東京に下り来て、医学所取締を命ぜられたのである。長崎に学んだのも、オランダに留学したのも、幕命によってである。
幕府の禄を食んだ者として明治政府に使われることに躊躇があったのか、惟準は在任2ヶ月ほどで、老母の見舞いを理由に辞去、大阪に帰ってしまう。そして副取締だった石神が3代目の取締となったのである。
大阪に帰った緒方惟準が大坂府医学校の設立に関わることは、大阪大学医学部についての回で述べることになろう。
さて、戊辰戦争の終結を受けて、医学所の教育機能を回復することになった。石黒の回想を再び引く。
そこでこの評議で決定した事は、先ずウリース氏に治療ばかりでなく講義をしてもらうこと、またその他の人々も講義をして生徒を引き受けることになり、旧事のごとく島村氏は生理、坪井氏は薬物、桐原氏は解剖の書を講義することになりました。それから佐渡の人司馬浚海(盈之)を徴してウリース氏の講義を口訳せしめ、私はその講義を筆記して本にすることを頼まれ、医学校の「紀聞筆記掛申付けそうろう事」という辞令を大学副知事から受け一ヶ月二十円の給料を渡されたのです。(同前)
こうして英国人医師ウィリアム・ウィリスを中心として医学教育が始まった。