本邦初の特志解剖
明治2年の医学校兼病院のこととして特記すべきことに特志解剖がある。
それまでの解剖は刑死者の遺体に限られていたが、この年の8月「みき」という女性の遺体が医学校内で解剖に付された。
ここの病院に入院していたものの、死期が近づいたことを感じた「みき」は死後の解剖を許諾したという。
これが我が国における特志解剖の第一号とされる。ここでも石黒の回想を引用しよう。
なお「明治三年の春」とあるのは石黒の記憶違いと思われる。
何にせよ、明治初年には人体解剖ということは材料が乏しく困難をしました。勿論、当節のように生前から死後の解剖など遺言するものは絶無で、死者があっても親族が解剖などは諾(き)きません。明治三年の春、一人の婦人の希望者が現れました。これは病院の施療患者の婦人で、自分の死後には必ず解剖して下さいと遺言しましたが、その後一週間ばかりで死亡したから、これを解剖に付しました。その婦人の腕には、梅の折枝(おりえだ)に短冊と、その短冊に情人の名のある刺青がありました。娼妓あがりだというにも似ず、死後の公益にもという心掛けが殊勝であるから、私どもも感じて特に法事をしたことがありました。
この女性は浄土真宗大谷派の念速寺に葬られ、その墓は現存して文京区の指定史跡となっている。
(第4話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)