「医学部AtoZ」スペシャルインタビュー

Special Interview

石川 陽平 氏

石川 陽平 氏

1987年生まれ。学習院高等科卒業後、東京慈恵会医科大学入学。世界保健機関(WHO)ジュネーブ本部インターンなどの経験を経て、卒業後は、聖路加国際病院に入職。14年度、聖路加国際病院ベストレジデント。15年に株式会社Mediplat(現メドピアグループ)の設立に参画し、オンライン医療相談サービス「first call」の企画・運営を行う。

「オンライン」×「医療」で
人を救えるシステムを

2015年、病気や体調についてオンライン上で医師に直接相談できる「オンライン医療相談」サービスの立ち上げに参画した石川陽平氏。その理由、そこにたどり着くまでの道のり、今後の可能性とは──。

石川 陽平 氏

石川 陽平 氏

1987年生まれ。学習院高等科卒業後、東京慈恵会医科大学入学。世界保健機関(WHO)ジュネーブ本部インターンなどの経験を経て、卒業後は、聖路加国際病院に入職。14年度、聖路加国際病院ベストレジデント。15年に株式会社Mediplat(現メドピアグループ)の設立に参画し、オンライン医療相談サービス「first call」の企画・運営を行う。

医師を目指したのは、部活中の怪我がきっかけ

中高一貫校に通っていた私は、中学・高校では部活でバスケばかりしていました。部活は週7日でハード、しかも私たちの代のチームは強かったので、東京都で3位、関東大会にも出場しました。けれども高校一年の夏、部活中に膝の大怪我(前十字靭帯損傷)を負ってしまったのです。

寝たきりで病院で過ごす夏は、私にとって初めてのものでした。手術を担当してくれた40代の男性外科医は、頻繁に回診にやってきて、よく声をかけてくれました。怪我だけでなく、私の気持ちを支えようとしてくれたのだと思います。明確に将来の仕事として医師になることを意識したのは、この時です。

ただ、それまでも人と関わる仕事がしたいという思いは漠然とありました。それは私が生まれ育った環境によるものだと思います。私の実家は江戸時代から代々続く老舗の金魚屋で、金魚の鑑賞会が月に2回開催され、その間に数百人が我が家に出入りする生活でした。ここに来る人は本当にさまざま。お金持ちの社長だけでなく、下町暮らしの「借金しても金魚を買うぜ」という人もいました(笑)。

そんなさまざまな人たちに揉まれながらの生活で、人との関わり合いが好きになっていきました。私には2人の兄がいたために、「家を継ぐ必要はない」と言われており、常に「自分は将来どんな仕事をすべきか」ということを考えていたように思います。高校1年の夏、その答えが出たのです。

WHOでインターンとして働き、ハーバードで学んだ経験

高校1、2年と成績は学年トップだったので、「このまま勉強していけば医学部も現役合格できる」と思ったのですが、甘かったですね(笑)。1年間の浪人を経て、東京慈恵会医科大学に入学しました。

浪人中はひたすら塾に通い、勉強を続けました。この大学を選んだのは、単純に合格した中で一番入試難易レベルが高く、学費が安かったからですが、結果的に大正解でした。大学の自由な校風が私の将来を大きく広げてくれることになったからです。

東京慈恵会医科大では、在学中、学生は病院実習をするのですが、その一部を海外での医療機関などの活動に充てていいということになっていたのです。その制度を利用し、大学6年生のときに、世界保健機関(WHO)のジュネーブ本部でインターンとして働きました。さらにそのままアメリカのボストンに移動してハーバード公衆衛生大学院の夏季コースを受講しました。

海外で公衆衛生に関わることを集中的に学んだのには、わけがあります。大学に入学した当初は、高校時代の怪我の経験から整形外科医になろうと決めていました。しかし、大学2年のときに父が脳梗塞で倒れ、失語症という後遺症が残ったのを機に「病気になる前に何かできることがあるのではないか」と「予防医療」について考えるようになったのです。

「公衆衛生」とは、個人の病気を診断・治療する「臨床」とは異なり、国家や自治体など集団レベルで病気にならないよう問題に対処することです。病気を予防するために社会全体で何ができるかを考えるのです。感染症対策や生活習慣病予防、労働衛生など多岐にわたります。

私がWHOでインターンをしていた際は、インフルエンザを管轄する部署に配属されました。2012年当時というのは、鳥インフルエンザの流行がようやく落ち着き、次のパンデミック(世界的流行)へ向けて準備を進めている段階でした。私の仕事は、WHOの支部から上がってくる世界中の情報を管理することでした。情報を吸い上げる方法やそのまとめ方、公衆衛生上の情報管理ノウハウを世界的機関で学べたことは何物にも代え難い経験となりました。

また、その後のハーバード公衆衛生大学院ではリスクコミュニケーションを学びました。これはパンデミックなどが起きたときに、国家や企業が公衆衛生学上どのようなコミュニケーションを取るべきか、という学問です。国民への説明、マスコミへの対応などが含まれます。

医学部というのはどうしても「職業訓練校」に近い部分があります。患者さんの病気を治すことに職人的であること自体はいいことですが、それだけでは社会を見る目が失われてしまう面もあるように思います。やはり医師も病院も社会の中の一つの存在です。これから医学部に入る皆さんには、視座が均一化しないよう学生のうちにいろいろな経験を積むことをおすすめします。

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