第10話 公立医学校廃止の第1号は埼玉県医学校〜埼玉・群馬・栃木の特殊な事情〜

東大医学部別課

明治16年東京大学医学部別課在籍者中、本籍埼玉県の者の数

埼玉県医学校の在学生はどうなったのだろう。廃校時に正則15名、変則46名の計61名が在籍していた。

久保田友子氏の前掲論文によると、埼玉県では東京大学医学部別課に入学許可された者には授業料を公費で支給することにした。しかし県担当者の不手際もあり、彼らが実際に別課に入学できたのはほとんどが廃校から1年半以上経った明治14年以降だという。

また明治15年の東大別課入学者は埼玉県医学校の在籍実績がないので、公費による東大別課派遣制度は、廃校となった生徒の救済としてだけでなく、県としての医師養成の施策として継続されたようだ。今で言えば、他県の医学部に行った学生に自治体が修学資金を提供するようなものだ。

そこで明治16年時点の東京大学医学部別課の在籍生のうち本籍が埼玉県の人数を調べると右表のようになる。別課は修業年限4年で、1年を2期にわけて進級させた。一期とは入学したての半年だから判りやすく言えば1年次前期であり、八期とは卒業間近の4年次後期ということになる。

八期の1名は浅井大吉という学生で、久保田氏によると廃校直後に県庁を通さずに自費で東大別課に入学し、事後に公費支給が許可されたものだという。おそらく彼が東大転籍組の最初ということになるだろう。転籍組が固まっているのは六期・七期である。五期以下は県立医学校の在籍実績がない者と思われる。

この表の全員が公費組かどうかはわからない。県の派遣制度によるのではなく、自費で学ぶ者もいただろうから、公費組は最大でこの人数だということだ。彼らが首尾よく卒業できたとしても、埼玉県として養成できる医師は毎年5名程度ということになる。自前で医学校を運営するよりは安上がりだが、極めて効率が悪い。

明治14年の埼玉県学事年報の報告者はあきらめきれずにこんなことを述べている。

—— 東大医学部は試験が難しく落第する者も多い。今在学する者は7人しかいない。このような少ない生徒を医師に養成しようとしても埼玉県の医学・医療の進歩には微々たる効果しかない。見識ある議員は、「医学校を廃止したのはひどい軽挙だった」と言っている。

東京大学医学部別課は、東京大学が帝国大学になる過程で、明治18年に募集停止となった。埼玉県の医師養成委託制度も終了した。

(第10話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)