第10話 公立医学校廃止の第1号は埼玉県医学校〜埼玉・群馬・栃木の特殊な事情〜

熊谷医学校から前橋医学校へ

前橋医学校の起源は熊谷にある。明治7年熊谷に衛生局(のち衛生所)が設けられ、そこから医学教育部門が分離して熊谷医学校となったが、明治9年に前橋に移転した。県境を越えた移転の経緯を理解するためには廃藩置県以来の埼玉県と群馬県の関係を理解しなければならない。

明治4年の廃藩置県直後は旧藩をそのまま県としたため全国で300を超える県が設置されたが、統合や分離が繰り返され、現在の43県になったのは明治22年だった。埼玉県は当初は埼玉・入間の2県体制だったが、明治6年、入間県は群馬県のほぼ全域と合併して「熊谷県」(上図の黄緑色部分)となった。この体制は群馬県が再び独立する明治9年まで続いた。

医学校が設立されるのがちょうどこの時期にあたっていて、埼玉県と熊谷県はそれぞれ医学校を設立したが、群馬県が独立し、残りの部分(かつての入間県)が埼玉県とひとつになって現在の埼玉県の版図が確定すると、熊谷の医学校は群馬県の医学校となって前橋に移された。結果として浦和の埼玉県医学校は県の南東隅に位置することになり、小鹿野町の田島県議の言うように、北部や西部の人々からは遠い存在と見られたのだ。

一方前橋に移転してきた医学校は「衛生所兼医学校」と呼ばれ、明治11年に新校舎が竣工した。ところがこの医学校も明治14年に廃校となってしまう。やはり県会で議決されたのである。学事年報はその理由を3つあげる。

① 生徒数が少ないのに多額の費用がかかる

②(松方財政のためそれまでの国庫負担が地方負担となり)地方税が増税となって、県民は税負担に耐え難い

③ 東京に近いのだから東大医学部別課に生徒を送って医師養成をしてもらえばよい

① はすべての公立医学校に共通すること、② は明治10年代後半の廃校事案に共通する。そして ③ は浦和の埼玉県医学校の廃止の理由と共通している。埼玉も群馬もいずれも「東京に近い」ことが医学校廃止の決断の後押しをしたのである。

また、栃木県にあった栃木県医学校の廃止は明治15年で、直接の原因は火災による校舎焼失で、県会から県令への上申により医学校廃止が決定した。埼玉県・群馬県同様に、東大医学部別課に医師養成を委嘱することが、自前の医学校経営の代替策とされた。

なお、明治11年に前橋に新築された「衛生所兼医学校」の校舎は140年後の今日も現存している。医学校廃止の後、県立女学校、師範学校附属小学校などとして利用されたが、昭和3年、県東部の相生村に払い下げられ、移築されて村役場として利用された。昭和29年相生村が桐生市と合併したため、桐生市役所の出張所・公民館として昭和57年まで利用された。重要文化財に指定されたため保存修復を行い、昭和61年から「桐生明治館」として一般公開されている。今に残る貴重な擬洋風建築である。