第3話 長崎精得館の発展と明治維新 〜長崎大学医学部の発進(つづき)〜

幕府瓦解と精得館の混乱

3人目の教師はマンスフェルト C.G. van Mansvelt である。慶應2年[1866年]に着任した。

慶應4年[1868年]鳥羽伏見の戦いで幕府軍敗走の報が伝わると、長崎奉行はじめ幕府官吏が逃げ出して長崎は一時無政府状態になった。精得館も館長不在となったため、学生の選挙によって長与専斎を頭取とした。長与はポンペ時代に入学したが(第2話参照)、国許の事情で退校し、今度は藩命をうけての再遊であった。

大村藩士である長与は長崎に留まったが、幕命で遊学していた池田謙斎は違った。徳川慶喜が錦旗に向かって発砲したのだから幕府は朝敵となったのであり「朝敵のかたわれでもこの地にいるものがあったら速やかに立ち退けなどという立て札が出ている」という雰囲気に身の危険を感じて、船で上海に脱出してしまった(『回顧録』)。

長崎にはやがて九州鎮撫総督・沢宣嘉が着崎し、井上聞多(のち馨)、佐々木三四郎(のち高行)、松方助左衛門(のち正義)、大隈八太郎(のち重信)らを参謀として新政府による統治が開始された。慶應が明治に改元されると、精得館は「長崎府医学校」と改称され、長与が学頭に任命された。時節柄か学生の気風が「剽悍放縦」に傾いていたので長与はマンスフェルトと謀って改革を断行した。その要諦は本科と予科に分け、予科で数学理科の課程を修めた者のみが本科に進んで医学教育を受けられるようにしたことである。翌年には予科の数学理化の講師としてヘールツ Anton Johannes Cornelis Geerts が着任している。同年「長崎県病院医学校」と改称された。明治4年[1871年]には文部省所管となり「長崎医学校」となった。

この医学校が現在の長崎大学医学部まで一直線につながるのかというとそうではない。早くも明治7年[1874年]には廃校となってしまうのであるが、それについてはまた別の機会に述べることする。

(第3話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)