第3話 長崎精得館の発展と明治維新 〜長崎大学医学部の発進(つづき)〜

第2代アントニウス・ボードウィン

アントニウス・ボードウィン
(大阪市天王寺区上本町の大福寺)

ポンペの後任はアントニウス・ボードウィンAnthonius Bauduinである。

オランダ貿易会社勤務の弟・アルベルトが長崎出島にいて、兄を推薦したのだった。ポンペより9歳年長の一等陸軍軍医である。

長崎では神経生理学、眼科学などで進歩目覚しい最新の医学を伝授した。

慶應元年[1865年]、「養生所」は「精得館」と改称された。この年ボードウィンは医学の基礎となる自然科学教育を充実させる必要を説き、分析究理所を併設し、翌年、理化学教師としてハラタマを招聘した。

ハラタマは幕府による理化学学校の設立計画があることを知ると在崎1年で江戸に移った。幕府崩壊でこの計画は立ち消えとなったが、明治新政府は大阪に理化学学校「舎蜜局(せいみきょく)」を設立してハラタマを教頭に迎えた。この舎蜜局がのちに第三高等学校となり、京都大学の淵源のひとつとなるのである。

ボードウィンに学んだ者には、池田謙斎(東京大学医学部初代綜理)、戸塚文海(海軍軍医総監)、相良知安(ともやす)(第一大学区医学校校長)らがいる。

慶應3年[1867年]、任期が切れたボードウィンは、オランダのユトレヒト大学に留学する教え子の緒方惟準(いじゅん)、松本銈太郎(けいたろう)を伴って離日した。しかしボードウィンと日本の医学教育との縁はこれで終わりではなく、明治維新後の大阪で、また東京で、われわれはボードウィンと再会することになる。そこには緒方惟準、岩佐純、相良知安ら、長崎で学んだ人々も登場するだろう。

次のページ:幕府瓦解と精得館の混乱 »