第5話 ドイツ医学の採用〜相良知安の活躍〜

相良知安の画策

ドイツ医学採用のために、相良と岩佐は下級教員の長谷川泰(たい、やすし)らと謀ってウィリスの授業を妨害することまでしたらしい。もっともウィリスは臨床には優れているが、講義には問題があったという池田謙斎の次のような証言もある。

「医学の方は初めウリュスが講釈するというので、化学の講釈をやりだしたが、それも実地試験が主で、今日から考えるとまるで浅草公園あたりでやっとる見世物同然、ほとんど子供だましのようなものだった」(池田謙斎『回顧録』)。

学士会館(千代田区神田錦町)

学士会館(千代田区神田錦町)
大学南校(のち東京開成学校)はここにあった。
正面玄関脇には「東京大学発祥の地」の石碑が建つ

さて、イギリス医学からドイツ医学への方針転換という難題を解決するために相良はフルベッキの権威を借りることを思いつく。

フルベッキは当時大学南校(東京大学の法・理・文3学部の前身)の教員であり、明治政府の政治顧問でもある。その彼に相談し、「ドイツ医学、特にプロイセンがよい」という証言を得、かつそれを書面にしてもらって、これを使って各方面に画策したのである。

フルベッキ Guido Herman Fridolin Verbeck はオランダ系アメリカ人で、安政6年[1859年]に来日、長崎の済美館(せいびかん、幕府設置)や致遠館(ちえんかん、佐賀藩設置)で10年間英語、政治、経済、理学などを教えた。

その時の生徒には大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之らがいた(梅渓昇『お雇い外国人』)。これらの人材の育成にかかわったフルベッキの影響力は絶大である。また相良自身もフルベッキからアメリカ憲法と聖書を学んでいる。

フルベッキのお墨付きをもらったドイツ医学採用案は、大隈重信、副島種臣らに理解され、イギリス支持派の山内容堂は大学別当を更迭され、岩佐の主家松平春嶽がその後任となった。こうして明治2年8月ドイツ医学導入が政府決定となった。