第5話 ドイツ医学の採用〜相良知安の活躍〜

ウィリスの処遇と相良の縲紲

ドイツ医学の採用、この決定によって起こった問題は、ウィリアム・ウィリスの処遇である。戊辰戦争以来の明治政府への貢献を考えれば粗雑な待遇はできない。体裁よく引き取ってもらう花道が必要なのだ。

この窮地に手を差し伸べたのが西郷隆盛である。相良はウィリスと昵懇である西郷に泣きついた。西郷は大久保利通らと相談してウィリスを鹿児島に迎えることにした。彼を雇い入れて鹿児島医学校を発足させようというのである。

ウィリス追い出しについては以上が定説になっているが、ウィリスの膨大な量の書簡を分析した萩原延壽氏によると、ウィリスは解雇されたのではなく自らの意思で辞任したのであり、また鹿児島招聘はウィリス辞任を機に企てられたのではなくそれ以前のかなり早い時期から進行していたのだそうだ。

つまり、そもそも鹿児島では本格的医学校の開設のために外国人医師・教師を求めていた。一方東京で医学教育について行き詰まりを感じていたウィリスがこれに呼応したというのである。なお、「相良知安翁懐旧譚」では西郷は登場せず、ウィリス解雇が決まった時、大久保利通から「ウリースを鹿児島へ雇い入れたいがいかがであろうか」と照会してきたことになっている。

定説と萩原説の違いは、鹿児島行きは西郷の救済策なのか、ウィリス自身の決断かであり、また鹿児島医学校の設立過程について —— ウィリスのための医学校か、医学校のためのウィリスか —— も解釈が違ってくる。

この後ウィリスは鹿児島で日本人女性と結婚し、一児を設けたが、西南戦争で鹿児島医学校が廃校となり妻子を残して離日する。

さて難題を解決した相良知安であるが、好事魔多し。翌明治3年9月(または11月)[1870年]、部下の森何某が学校の公金を横領したことを理由に捕縛・投獄されてしまう。やがてこれは冤罪と判明し1年後に釈放されるのだが、捕縛した弾正台の長は、旧土佐藩出身の河野敏鎌(とがま)だった。ドイツ医学導入方針に抵抗したために大学別当を更迭されたのが山内容堂。旧藩主の面子をつぶされた土佐藩士の恨みを買ったためではないかと言われる。

廃藩置県以前の時代である。旧藩主の権威はまだまだ絶大だった。

(第5話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)