第11話 公立医学校と鷗外の『雁』〜「明治十三年の出来事」の意味〜

医学士需要と末造の金回り

「医学士専門」というところが重要である。当時の医学士は、卒業するとすぐに地方の病院長の職が待っていて、月給は100円以上であった。廃藩置県後の府県行政の進展によって公立病院の設立ブームが起こり、医学士は引く手数多だった。このころ内務省衛生局長と東京大学医学部綜理心得(副校長)を兼任した長与専斎の回想録にはその当時の事情が書かれている。

いずれの地方においてもすでに廃藩の当時より良医の欠乏を告げ、牧民の職にある者、ことにこれを補うの必要を感じければ、都下の医師を聘(へい)して病院を設置すること一時の風潮となり、(明治)十年の頃にはほとんど病院なきの府県はなく、院長の選択招聘を衛生局に請求するものひきもきらざる有様なり。時こそよけれ、この頃より大学卒業の医学士は年々彬々(ひんひん=広く行き渡るさま)として世に出で来たれり。(『松香私志』)

明治10年時点で全国の病院数は106、うち公立が64であった(伊関友伸『自治体病院の歴史』)から長与のことば通りである。大学医学部は東大にしかなかったから、医学士=東大医学部卒である。彼らには公立病院の院長という高報酬のポストが待っていた。学生時代の高額の借金も、院長に就任すれば返済にさほどの苦労はいらないだろう。

『雁』にもどると、このような借金を背負った医学士の実例が、末造が妻お常(つね)を言いくるめることばの中に登場する。お玉の存在に気づいたお常が末造を追及すると、末造はその女は別人の情人なのだと誤魔化そうとする場面である。

それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、よく内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだおれの方の勘定が二年や三年じゃあ埒(らち)が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲りの店を借りて入れてあったのだ。(『雁』拾弐)

最後の一文は末造の作り話なのだが、千葉にいる「吉田さん」は嘘ではないだろう。というのも、この物語の最後にお玉が岡田にアプローチを試みるのは、その晩末造が千葉へ泊りがけで行ったからである。おそらく証文の書き換えといった用向きの出張だったのだろう。

東大医学部では、東京医学校時代の明治9年に31名の卒業者が出たが、彼らには医学士の学位は与えられなかった(ただしのちに「準医学士」の称号が与えられ、明治20年には継続して医業に携わっているものは「医学士」となれた)。医学士としての卒業は明治12年10月の18名である。『東京大学百年史 通史一』には明治16年までの医学士・準医学士の卒業後進路の集計が記載されている。それによると、151名中、府県病院69名、府県医学校19名と、6割近い者が公立病院・医学校に勤務している。月給100円以上の職にありつける医学士が安定的に輩出されるのは明治12年秋以降である。『雁』が「明治十三年の出来事」であることの意味はここにある。

長与専斎の後に綜理心得となった石黒忠悳(ただのり)は次のような逸話を紹介している。先に述べた明治12年10月の18名の卒業者のうちに梅錦之丞がいた。成績優秀だったので留学生に選ばれたが本人はそれを辞退すると言う。その理由がこうである。

ところが梅が私(石黒)のところに来て申すには、「家の事情等で学資が足りなかったために大学に小使をしていた某に借金があるので、早く金を取ることが必要で、外国へは行けない」とのこと。(中略)私は少しの借金なら片付けて立たせてやりたいと思うてその額を聞くと、千数百円あったので驚きました。どうしてそう沢山あるのかと問うと、「元金は三百円ぐらいだが高利がかさんでそれだけになりました」との答え。(『懐旧九十年』)

「大学の小使をしていた某」とは勿論、先に引用した入沢達吉の言う「大学の小使上りの岡田元助」である。結局、石黒が金を工面してやって梅は留学した。なお梅錦之丞の弟が梅謙次郎で、帝国大学法学部教授となり、また法政大学の設立に関わった人物である。

末造がお玉を妾にしようと思い立つのは、「金が出来て段々自由が利くようになった」(『雁』肆)からであり、それは明治13年の初夏だった。前年秋に誕生した医学士が公立病院に高給で雇われるようになり、「背負い切れない程の借金」の返済も進むようになり、末造の金回りが格段に向上した時、それが明治13年なのである。

お玉が囲われ者になった背景には高まる医学士需要があったと言ってもよいだろう。冒頭に「異なる世界のすれ違い」と述べたが、二つの文化圏は案外と見えないところで繋がっていたのである。

ところで「吉田さん」が行っている「千葉の病院」とは、公立千葉病院ということになるだろう。現在の千葉大学医学部の起源は、明治7年に設立された「共立病院」が「公立千葉病院」となって、それに付設された医学教場である。明治9年に早川岩瀬を校長に迎えたが、早川は明治9年卒業組であり、「医学士」ではなかった。明治13年になって長尾精一が校長に招聘され、早川は県立宮城病院(東北大学付属病院の前身)に転任した。長尾は「医学士」としては第2回目の卒業者である。卒業式は7月だったが、公立千葉病院の着任は6月である。『雁』の中の時間で言えば、末造が貸家をいろいろと物色した挙句、お玉を住まわせるのは無縁坂の家にしようと決めた頃である。

もちろん「吉田さん」のモデルが長尾精一だというわけではない。妻を騙すための末造の言い訳の中にも、時代のリアリティーを読み取ることができるということである。