末造の蓄財
お玉を囲う高利貸しの末造はもとは医学部が下谷にあった頃そこで小使をしていた男である。
まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪(たて)に並べてはめた窓のあいている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論今はあんな窓を見ようと思ったって、僅かに丸の内の櫓に残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきゃしゃに出来ている。(『雁』肆)
東大医学部の起源は江戸の蘭方医が共同で開設した「種痘所」が江戸幕府直轄の「医学所」となり、戊辰戦争の際に新政府軍が藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)屋敷に開設した「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となったものである。その後「大学東校」、「東校」、「第一大学区医学校」と名称が変わり、明治7年に東京医学校となったが、施設は大名屋敷のものをそのまま使用していた。
末造が高利貸しになるまでの蓄財は、この藤堂屋敷の時代に医学校の小使として働きながら、学生にわずかな金を立替えすることから始まった。学生相手の金貸しをしていてはたして手広く高利貸しを営む元手が整うものか、『雁』の語り手はこの点を訝って、「一匹の人間が持っているだけの精力を一時に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない」という精神論でまとめてしまっている。しかし精神論で蓄財ができたわけではない。貸付相手が学生とはいえ、医学生であったことが「不可能な事はなくな」った理由である。
実はこの末造にはモデルがあった。大正時代に東大医学部長となった入沢達吉の回想によると、「その頃(明治10年頃)の本科生は皆、大学の小使上りの岡田元助という医学士専門の高利貸、「癌」という綽名があったその男から高利の金を、背負い切れない程借金して」いたという(入沢達吉『赤門懐古』)。
「癌」というあだ名は、言いえて妙、借金もがん細胞も旺盛な自己増殖力があるからだ。それにしてもなぜ「背負い切れない程の借金」が可能だったのか、貸し方でも焦げ付きが懸念されるのではないか、と疑念が生まれる。