第2話 近代西洋医学教育の始まり 〜長崎大学医学部の発進〜

大村町に移転、長与専斎の感動

ところが、安政6年[1859]、幕府は海軍軍人養成を江戸築地の軍艦教授所に一本化することに決め、長崎海軍伝習所は廃止、教官はすべて途中契約解除となり帰国することとなった。オランダが英・米・仏など他国に配慮して、軍事技術を日本に伝授することを辞退したため、という説もある。

この時ポンペは、長崎に留まり、医学講義を継続することを希望した。だが問題はもうひとつあった。それは松本良順の身分である。彼は幕府によって海軍伝習所に派遣された身分であり、その伝習所が廃止されるのだから当然江戸に帰らなければならない。

良順を助けようと長崎奉行・岡部長常(ながつね)は江戸幕府に嘆願した。その返書には、黙認する旨が述べられ「大老の職が医生一人の所置を忘れたりとて、法において何の不可なることかあらん。留学費その他一切なお従前の如くせよ」とあった(『蘭疇自伝』)。こう返信した大老とは井伊直弼であり、桜田門外の変で水戸藩脱藩者らによって暗殺される前年のことである。

医学伝習所は受講者が増えたため、大村町の二階建て長屋に引っ越した。現在で言えば県庁から北へ坂を上ったところにある長崎地方裁判所の敷地である。

この大村町時代に入学した者に長与専斎がいる。のちに東京医学校校長、内務省衛生局長となる人物である。

専斎は肥前大村藩の侍医の子で、緒方洪庵の適塾で6年間学んだ。更に江戸へ出て医学を学ぼうとしたが、それに対し洪庵は「(江戸では)日本流の蘭法治療を見習うまでのことにて、さして益することはあるべからず」と江戸行きに反対し、長崎のポンペと良順の医学伝習所について「これこそ我が蘭学一変の時節到来して千載の一時とも言うべき機会なれ」と長崎行きを勧めた(『松香私志』)。江戸では前年に「種痘所」が開設されたばかりである。この時点での長崎と江戸の医学教育のレベルの差は歴然としていて、その情報は大阪にも伝わっていたわけだ。

万延元年[1860]、医学伝習所に入学した長与専斎の感想は、「つらつら学問の仕方を観察するに、従前とは大なる相違にて、きわめて平易なる言語即文章を以て直ちに事実の正味を説明し、文字章句の穿鑿の如きは毫も歯牙にかくることなく、病症・薬物・器具その他種々の名物記号等の類、かつて冥捜暗索の中に幾多の日月を費やしたる疑義難題も、物に就き図に示し一目瞭然、掌に指すが如」くであった(同上)。

この感想にある旧と新の教育法・学習法の違いが、松本良順の江戸の医学所の改革の前と後の違いに対応しているのは明らかだろう。

(第2話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)