江戸では遅れた種痘の普及
種痘所は安政5年[1858]江戸の蘭方医82名の出資により開設された。中心となったのはシーボルトに学んだ大槻俊斎、伊東玄朴ら。種痘所とは疱瘡と言われた天然痘の予防接種をする施設である。疱瘡という病気は「江戸時代をとおして日本人の死因の第一位を占めていたひとつ」(立川昭二『江戸 病草紙』)だったのである。
ジェンナーが発見した牛痘接種法が日本に伝えられたのは嘉永2年[1849]で、長崎出島のオットー・モーニッケが接種に成功して日本全国に普及していく。この年すでに大阪の緒方洪庵は「除痘館」を開いている。
大阪道修町の「緒方洪庵 除痘館発祥の地」碑
うどんすきの店の軒先にある
江戸の「種痘所」が設立されたのはすでに述べたように、安政5年[1858]と、大阪よりだいぶ遅れたのには理由がある。
江戸では漢方医の勢力が強大だったからである。漢方医方は奥医師(将軍家の侍医)をほぼ独占していて、幕府の医療行政に影響を及ぼした。漢方医学の研究・教育機関である「医学館」を根城にした楽真院(らくしんいん)多紀元堅を中心にして反・蘭方医活動を行い、大阪で「除痘館」が開設された同じ年(嘉永2年)、老中阿部正弘に蘭方禁止令を出させた。これによりオランダ医学の修得は禁止され、医書の発刊は医学館の許可が必要になった(医学館は実際には許可を出さなかった)。
しかし種痘についてはその効果が明らかになってくると漸くその普及活動についてのみは許容された。そしてこの種痘普及活動が「蘭方医学、ひいては西洋医学を幕府に認めさせる突破口」(『東京大学百年史 通史一』)になったのであり、ここで行われた蘭方医学教育が、やがてドイツ医学による体系的教育へと発展していく濫觴となった。