連合構想を頓挫させた沢柳政太郎と神田大火
先に述べたように、辰野金吾設計の煉瓦造の新校舎が竣工したのは明治22年(1889年)だった。これは、英吉利法律学校が司法省からの補助金を得たため、狭隘になった校舎を新築しようとし、東京英語学校もこれに乗り、建築費2万6千円を折半して完成させた。東京英語学校はこの費用を借入金で賄い、以後毎月250円ずつ返済するとことになるが、入学者が増加し続けている当時の財政状況では全く無理のないことだった。東京文学院の設置もこうした時代だから可能だった。
ところが転機は明治24年(1891年)にやってくる。文部次官・沢柳政太郎(のち京都帝国大学総長となり、いわゆる「沢柳事件」の当事者となった)は私立学校の教育を批判し、官立高等中学校への入学を公立尋常中学校卒業者に限定するとし、手始めに第一高等中学校について私立学校からの入学を禁止してしまった。その結果、東京英語学校のみならず、私立学校の入学者は激減し、在籍生徒も公立中学に転ずる者が続出した。私立学校側はこれを「私立学校撲滅策」と批判して猛反発し、協力して反対運動を展開した。
そこに祝融の災いである。明治25年(1892年)4月10日、神田猿楽町の飲食店から出た火は内神田一帯を焼き尽くした。東京法学院と東京英語学校・東京文学院の煉瓦造校舎も全焼した。威容を誇る煉瓦建築が壊滅したのは衝撃的だったのだろう、直後にはこんな歌が流行った―「半鐘ジャンジャン、神田の煉瓦がくずれっぽう、すっちゃん、ポンプ廻らんかいの、おっぺらぼうに燃えるぞよ」(田山花袋『東京の三十年』)。
東京法学院は保険金で校舎を再建することにした。東京英語学校は、灰燼に帰した校舎のローンが残っていたため、保険金でそれを完済すると手元にはいくらも残らなかった。学校存続の危機である。
経営陣は、学校を継続し、かつ尋常中学校組織に改組する方針を議決した。校舎再建のための寄付は思うように集まらなかったが、佐々木高行(前出・佐々木高美の父。司法大輔、工部卿、枢密顧問官など歴任)からの出資で目途はついた。
新しい校地は半蔵門外の麹町区山元町1丁目(現在は㈱エフエム東京が所在)で、校舎は、2年前に行われた上野の内国博覧会の廃材を利用した木造2階建である。ここでの授業開始は9月、被災から5カ月後である。東京文学院も一緒に開校したが、既に述べたように翌年廃止され、3学院の連合構想は立ち消えとなった。
東京医学院 謎の廃校
やがて東京医学院も廃校となった。しかしその経緯はよくわからない。『中央大学百年史』は3学院連合が実現しなかったのは「東京医学院も、設立の認可を得ながら、ついに開校の運びに至らなかった」ことが一因、と述べているが、これは事実と異なる。先に述べたように、設立当初から多数の入学者を集め、同朋町の校舎が狭隘となって錦町に新築移転している。神田の大火では東京医学院は被災を免れて3日後には授業が再開された。
東京府統計書では、東京医学院は明治27年版から姿を消している。また、東京の諸学校案内である『東京遊学案内』は、明治26年版まで「東京医学院」を掲載しているが、翌年版からは削除されているから、どうやらこの頃に廃校になったと見られる。右の表でもわかる通り、生徒数が減少して消滅した、ということではない。200人の生徒を抱えながら忽然と廃校になったのである。
廃校の理由はわからないが、経営者・佐藤精一郎の曽孫である樋口輝雄氏(日本歯科大学新潟生命歯学部)は、「家に残る口碑では曽祖父・精一郎は東京での学校経営に躓き、債鬼をかわすため爾後は公的な場から隠遁したという」と述べている。何らかの理由で東京医学院は負債を抱えて経営破綻したということらしい。
佐藤精一郎は医学校に付属させるかたちで病院も設立した。貧窮者の救済のための施療病院「佛教博愛館病院」で、仏教各宗派の協賛を得て明治26年(1893年)の6月に開院した。あるいはこれが重荷になって経営破綻の一因になったのだろうか。『東京府統計書』では、明治27年版で「博愛館病院(私)」が初めて掲載される。「所在地名」は「神田区錦町三丁目」、「治療の目的」は「貧民施療」とある。しかし翌28年版で早くも姿を消すのである。医学校と同時期かあるいは相前後して病院も閉鎖されたと思われる。
その後の山龍堂病院
「東京医学院」が閉校しても樫村清徳は、山龍堂病院で臨床講義を続けた。毎週水曜日と土曜日の午後、外科と内科の臨床講義である。内科は樫村と副院長の土屋良蔵が分担、外科は東京帝国大学医科大学から佐藤三吉を招聘した。講義の趣は、医術開業試験の後期実習対策と、現役医師の知識・技術の向上である。全国各地の医師が聴講に上京してきたという。
病院も隆盛が続く。明治32年(1899年)の『新撰東京名所図会第21編神田区の部・中巻』には、「正門は裏神保町東明館の角より駿河台南甲賀町に通ずる道路の左側設けられ、その裏門は猿楽町一丁目に面せり」とある。要するに、隣接する地所を買い増して増築が何度か行われ、ついに正門側とは反対側の道路まで敷地が伸びて「裏門」が作られたのである。その規模と殷賑ぶりは、「順天堂と並び称せられる」とか「佐々木東洋の杏雲堂病院にも匹敵する」といわれた。
しかし山龍堂は順天堂・杏雲堂と違って現存しない。樫村院長の死からわずか20年ほどで閉院してしまうのである。
「起死回生の老国主」と言われた樫村清徳が死去したのは明治35年(1902年)7月だった。病院は長男が継いだ。
学生時代に樫村家に出入りしていた柳田国男は「樫村家は娘たちはみなきれいでしっかりしていた。男の子は三人で、随分大切に育てられていたようである」(『故郷七十年』)と語っているが、男三人のうちの長男は樫村正五で、家督相続は26歳の時ということになる。「大切に育てられた」のと関係あるかどうかわからないが、病院のことは副院長に任せきりで、正五院長は投機にのめりこんでいった挙句に失敗し、埋め合わせに病院は売却された(大正12年=1923年)。第1次世界大戦の戦中と終結直後の好景気で「一夜大尽」、「大正成金」が生まれた時代だが、1920年には株式が大暴落して反動恐慌に突入した。そうした時代に院長の投機失敗で、山龍堂病院は開院から37年でゆくりもなく廃院となった。
この時、飯田町六丁目17番地の邸宅も人手に渡った。清潔を保つため各部屋を漆塗りにした、先代自慢の居宅であった。病院の売却額が7万5千円、邸宅は40万円というから、その宏大さがわかる。ここには、関東大震災で焼失した日比谷大神宮が移転してきて、飯田橋大神宮と言われた。これが現在の東京大神宮である。
なお、東京法学院・東京英語学校があったところは、その後も中央大学が所在したが、関東大震災で校舎を焼失したため(三度目の全焼!!)駿河台に移転し、その跡地を「電機学校」(現・東京電機大学)が購入して(1926年)本拠地とし、2012年に北千住に移転するまでここにあった。
(第19話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)