卒業式は行われなかった
さて、卒業式で挨拶をした「総長でないだれか」とは小野塚喜平次(おのづかきへいじ)である。後に総長に就任するがこの時点では病気療養の古在総長に代わる「総長事務代理」であった。
「この時点」とは昭和3年[1928]3月31日である。この日総長事務代理の発令があり、安田講堂で初めての卒業式が行われた。
しかし『むらぎも』の中の“今”は、大正天皇崩御の翌年の春であるから昭和2年3月である。藤麿王と中野重治の卒業も昭和2年3月である。
なぜ昭和2年の卒業式を描写しないのか…それは、大正8年から昭和2年までの間は卒業式は行われなかったからだ。
遡って大正7年[1918]、山川総長時代に卒業式の廃止が決まった。学問の道は生涯続くのに「卒業は即ち学問を終えることと誤解して小成に安んずる者」がある、というのが理由だと『東京帝国大学五十年史』は述べている。中野実著『東京大学物語』は、社会主義思想の拡がりなどにより、卒業式への臨幸において不測の事態が生ずるリスクが高まってきたことが背景にあるという証言を載せている。銀時計が下賜される優等生制度も同時に廃止された。
こうして卒業式は大正7年を最後に廃止されてしまった。安田善次郎が大講堂と便殿のために寄付を申し出たのは大正10年だから、この時はすでに卒業式はなかったのである。しかし天皇の行幸がなくなるわけではない。廃止決定当時の山川総長は「是非御臨幸は年に少なくとも一回だけは願いたい」と表明している。帝国大学への行幸は、“皇室による学問奨励”を視覚化する最高のパフォーマンスだからである。しかし中野実によれば、卒業式は復活したが天皇の臨幸はなく、東大が「再び天皇を迎えるのは、戦意高揚のプロパガンダとして行われた皇紀二千六百年奉祝関係の行事の一つとしてであった」(前掲著)という。
なお、卒業式廃止を大正天皇の病気と結びつける説もあるようだがこれは怪しい。原武史著『大正天皇』によると、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は、出生時の虚弱体質を克服して壮健な皇太子時代を過ごした。天皇即位後、周囲が異変に気づき、公務に支障を生じるようになるのは大正7年[1918]10 月の天長節観兵式欠席あたりからであるという。東大の卒業式廃止決定はそれより4ヶ月前のことであるから、直接的な関係はないだろう。
『むらぎも』にはいくつかの事件に時間的操作がなされている。共同印刷争議は大正15年[1926]の1月に発生し、3月に終結しているが、これを12月まで続いていたこととして描き、大正天皇崩御の諒闇が争議収拾に巧妙に利用されたとする。中野が芥川龍之介(作中では葛飾伸太郎)を訪問したのは卒業後のことだが、これを卒業前のこととしている。
新人会活動、労働争議、大正天皇の崩御と昭和の始まり、芥川に代表される旧世代文学の敗退、そして最後に東大卒業とプロレタリア作家の誕生という展開には、単なる「卒業」ではなく「卒業式」というセレモニーがふさわしいだろう。しかも「はじめて扉のあけられた大講堂」での卒業式である。