本郷校舎群のパノラマ
9月11日、新学年の開講日だ [1] 。新入生・小川三四郎は勇んで登校するが教授もいなければ学生もいない。翌日気を取り直して登校。正門を入ったところで構内を見渡す。
下の写真は当時の本郷キャンパスの、正門付近からのパノラマ写真である。三四郎はこの眺めをじっくりと味わう。正面の銀杏並木、その先の坂の下にある理科大学は2階部分だけが見えている。先日野々宮さんを訪問した所だ。
手前の建築群は右から図書館、法文科大学、銀杏並木を挟んで博物学教室(正式には理科大学博物学・動物学・地質学教室)。これらは「よくわからないが同じ建築だろう」と三四郎は考える。確かにその通りで、最初にジョサイア・コンドルによって法文科大学が建てられ(明治17年竣工)、その後これを手本とし、様式を統一してあとの二つが建てられた [2] 。よくわからないながらも、「細長い窓の上に、三角の尖った屋根が突き出している。その三角の縁に当る赤煉瓦と黒い屋根の接目の所が細い石の直線で出来ている」とヴィクトリアン・ゴシック様式の特徴をとらえた観察をしている。
写真の左奥は工科大学。三四郎の曰く「背の低い相撲取」のようなこの建物は、コンドルの弟子辰野金吾の設計。中央に中庭を持つロの字型である。
これらの建築群を展望した三四郎は「学問の府はこうなくってはならない。こういう構えがあればこそ研究も出来る。えらいものだ」と感動する。これは先日池のほとりで聞いた野々宮さんの言葉の受け売りだ。
感動したものの、そのすぐ後に作者は「けれども教室へ入ってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もその通りであった」と付け加える。
結局講義が始まったのは「それから約十日ばかり立ってから」だった。最初の講義の教師は15分以上遅れてやって来た「人品のいい御爺さんの西洋人」だった。この西洋人のモデルはジョン・ローレンスだと言われている。漱石が帝国大学講師を辞する直前の明治39年に着任し、大正5年まで教壇に立った。三四郎がこの講義で教えられたのはanswer の語源や、ウォルター・スコットの小学校のある村の名前であった。「いずれも大切に筆記帳に記して置いた」。
次は文学論の講義でこれは漱石自身がモデルのようだ。「古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十ばかり列(なら)べ」られた三四郎は「是も大事に手帳に筆記」する。
- 本文脚注
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- もちろん当時は「秋入学」だった。東大が4月入学に変わるのは大正10年。
- 藤井恵介「東京大学本郷キャンパスの歴史と建築」(『東京大学創立120周年記念東京大学展 建築のアヴァンギャルド 学問の過去・現在・未来』東京大学総合研究博物館HP)