文学散歩【3】三四郎の本郷キャンパスツアー(第2回)

東大名物「井の哲」の演説調講義

井上哲次郎(国立国会図書館ホームページより転載)

井上哲次郎(国立国会図書館ホームページより転載)

午後は大教室の講義で、「砲声一発浦賀の夢を破って」と演説口調で始まった。この教授のモデルは哲学・哲学史第一講座担当の井上哲次郎(通称「井の哲」)。「砲声一発」は学生の間でのあだ名となっていたらしい。

漱石は留学から帰国して、一高と東京帝大で講師として採用される際に、当時文科大学長だった井上に挨拶に行った。この時のことを安倍能成(よししげ)に語るに、「『上はチョウサーから下はキップリングまで講じてください』といったと、井上さんの声色までまねした」[3] という。

安倍能成は愛媛の松山中学(現・松山東高等学校)から一高へ進み、東京帝大入学は明治39年だから、三四郎の1、2年先輩になる。

井上哲次郎は安政2年(1856年)福岡県太宰府の医師の子として生まれ、太宰府で漢学、長崎で洋学を学び、明治8年に東京開成学校に入学、同10年には開校したばかりの「東京大学」文学部に入学、卒業後は東大の哲学分野の最初の官費留学生となり、帰国してすぐ文科大学教授に就任、明治23年から足掛け33年間、哲学、宗教、東洋哲学史などを講じた。

「帝国大学において直接自分の講義を聴いた者は約三千人」[4] と胸を張るが、その講義の評判はよくない。安倍能成によると必修講義だった「日本武士道の哲学」は「実に無準備な出鱈目の粗笨(そほん)極まる講義」であり、ケーベル先生に言わせると「彼は別にわるい人間ではない、たゞスチューピドなだけ」だそうだ。更に安倍は、京大文学部が西田幾多郎や田辺元によって「独特な学風を発揮した」のに対し東大文学部の哲学科が「萎靡(いび)不振を極めた原因は、井上さんが哲学者でも学者でもなく、又真面目な人間生活の追及者でも何でもなかった」からで、「東大文学部の屈辱」だ、とまで言う [5]

本文脚注
  1. 安倍能成『我が生ひ立ち』
  2. 井上哲次郎『懐旧録』
  3. 安倍、前掲書