文学散歩【3】三四郎の本郷キャンパスツアー(第2回)

二度総長になった山川健次郎

山川健次郎の胸像(理学部1号館前)

山川健次郎の胸像
(理学部1号館前)

明治34年に東京帝大総長に就任したものの戸水事件 [11] で事態収拾のため総長職を辞したことでも有名だ。

その後九州帝大総長を務めたあと大正2年にもう一度東京帝大総長に就任、更に、沢柳事件 [12] が発生した京都帝大の総長も兼任する。

京都の後任の総長として荒木寅三郎(京都帝大医科大学長)を文部省に推薦したが、この際事前に各分科大学の了承を得ている。実質的に「総長公選」に近い選出の仕方であった。

その後大正8年、山川は東京帝大の「総長候補者選挙内規」を制定した。その内規によって選出されたのは山川で、東大史上初の「公選総長」となった [13]

このように山川健次郎は、大学の自治や学問の自由をめぐる “歴史的人物” である。「秋入学」だった学年歴を4月始まりに変更したのも山川である。もっともこれは当時教育問題を議論していた臨時教育会議(山川自身もその委員である)の意向に沿ってのことだったらしい [14]。2006年12月、山川の曾孫にあたる福田宏明氏によって寄贈された胸像が理学部1号館の前に設置された。

さて千里眼事件だが、そもそもこの実験に山川は「霊妙なる発見を目し之が研究を為さずして無碍に排斥するが如きは又当を得たりと云うべからず」[15] という態度で臨んだ。その背景には、すでにふれたX線の発見以来、電磁波、放射能、ラジウムとポロニウムと、不可視光線の発見が相次いでいた [16] ことがあった。

しかし山川らはその被験者一家の胡散臭さを感じ、実験から手を引く。ところが福来助教授は逆にますますのめり込んで行き、やがてそれが原因で東大を去ることになる。総長・濱尾新、文科大学長・坪井九馬三(くめぞう)、そして福来の師・元良(もとら)勇次郎教授までもが千里眼研究をやめるように忠告するのに対し、井上哲次郎は最後まで福来を擁護し続けた。

加藤弘之(東京大学初代綜理、帝国大学第2代総長)は、この実験は自然科学が担うべきものであって「哲学や宗教などで研究せんとするが如きは、笑うべきの甚だしきものなり」[17] と、名前は挙げないものの、福来とその背後にいる井上を痛烈に批判しているにもかかわらず、井上は福来に理解を示し続けた。

20世紀初頭、「世界的なパラダイム・チェンジの様相が一段落つき、近代科学が制度として確立して行く状況下で、もっとも次代の『科学』という規範にのっとって判断した者が物理学者たち」なのであり、「『科学』という規範から足を踏み出してしまった」のが福来助教授だった [18]

本文脚注
  1. 明治38年、法科大学教授・戸水寛人が日露戦争講和反対を主張したため休職処分とされた事件。
  2. 大正2年、京都帝大総長に就任した沢柳政太郎が教学刷新として7教授を免官としたため教授会と対立した事件。
  3. 『東京大学百年史 通史二』
  4. 寺崎昌男『東京大学の歴史』
  5. 長山靖生『千里眼事件』
  6. 松山巖『うわさの遠近法』
  7. 長山、前掲書
  8. 一柳廣孝『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉』
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