文学散歩【3】三四郎の本郷キャンパスツアー(第2回)

千里眼事件と東大教授

井上哲次郎の話題をもうひとつ。明治43年の「千里眼事件」である。千里眼事件とは「透視」や「念写」ができる超能力を持つと主張する人物 —— 熊本と香川丸亀の二人の女性 —— について、その能力の証明実験を東京と京都の両帝大の学者らが行い、それを新聞各社が逐次報道することで社会的関心を呼んだ「事件」である。この実験で中心的な役割を果たしたのが福来(ふくらい)友吉。福来は東京帝大文科大学哲学科の助教授(心理学専攻)であり、井上哲次郎の教え子だった。この実験には井上自身も立ち会うことがあった。

東京帝大からは理科大学の山川健次郎らも参加した。光線の圧力を研究している野々宮さんのモデルである寺田寅彦は当時ドイツに留学していたからここには登場しない。

山川健次郎は嘉永7年(1854年)会津藩士の三男として生まれた。15歳で白虎隊に参加、若松城に籠城した。朝敵の汚名を被った山川に運を開いたのはアメリカ留学だった。

北海道開拓使次官の黒田清隆が寒冷地開拓の技術を導入するためアメリカに留学生を派遣することにした。それには寒国出身の者がよいだろうし、また「明治戊辰の戦に奥州のもので一番男らしく戦った」のは会津と庄内だから、この二藩から人選して「留学に出して開拓の方法を習って来させ」[6] ようという黒田の思い付き的発想のおかげで渡米したのが明治4年の1月だった。

その10か月後、これまた黒田の思い付きで、開拓使の妻となり母となるべき教養ある女性の育成として、山川捨松、津田梅子らの5人の女子留学生が岩倉使節団とともに渡米した。捨松は山川健次郎の妹で当時12歳、帰国後大山巌の後妻となり、大山伯爵夫人として鹿鳴館外交で活躍、「鹿鳴館の花」と讃嘆された。大山巌は若松城を包囲した官軍の砲兵隊長だった。

兄健次郎はイェール大学に学んでいたが、勉学途中の明治6年12月、留学生の一斉帰朝命令が出た。これは留学生の増大と質が問題視され、以後官費留学生はすべて文部省管轄とし厳格な選考により派遣することになったためである。この危機を救ったのは同級生の伯母の米国婦人だった。彼女は卒業までの学費を出すにあたって、「学校を卒業して国に帰ったら一生懸命になって国に尽くす」[7] という「証文」を山川に書かせた。

帰国後は東京開成学校時代から物理学教授を務めた。明治28年にはレントゲンによって発見されたX線を日本で初めて実験した。その教えを受けた人は「己を持すること極めて謹厳であったが人を待つは甚だしく寛恕であった」 [8] と言う。山川邸を訪れた井上哲次郎は「住宅は相当に広いけれども、只障子と畳で、見た処何等装飾らしいものは無かった」[9] と伝え、菊池寛は「古武士的教育家」[10] と呼んだ。

本文脚注
  1. 山川健次郎・述『山川老先生六十年前外遊の思出』
  2. 同前
  3. 中村清二『物理学周辺』
  4. 井上、前掲書
  5. 菊池寛『明治文明綺談』

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