研究のこと「偶然」とは、心の準備が整っている人だけに微笑むもの
—— 有機化学の世界にどっぷり浸かった大嶌教授はひたすら研究に打ち込み、約40年間で450本もの論文を書いてきた。なぜ、そこまで研究一筋の人生を突き進んでこられたのか。実は、その理由は極めて単純だ。有機化学とは、それほどまでに人を魅了する学問分野なのだ。
私は残念ながら、野崎先生はもとより野依先生や山本先生のような天賦の才には恵まれていません。それでも研究者としてなんとかやってこられた理由は、研究対象として有機化学つまり実験科学を選んだことに尽きます。
これが理論科学、例えば物理や数学の世界にいたなら、おそらく続かなかったでしょう。論理を突き詰めて、理論を精緻に組み上げる学問に、偶然の入る余地は微塵もありません。仮に予想外の結果が出た場合は、どこかで計算かロジックの組み立てを間違ったのです。純粋に頭の中だけで、精緻に理論を組み立てるプロセスにおいて偶然など許されない。
ところが、有機化学の世界ではセレンディピティ(※5)が起こる。実験前には、想像もしなかった結果が出る。そんな予想外の出来事が起こったときこそが勝負なのです。
想定外の結果を単なる間違いと流してしまえば、何も得られません。なぜ、そうなったのか。予想と異なった原因は何か。この謎を突き詰めるプロセスにこそ、化学の面白さがあるのです。
野依先生や山本先生は、発想自体が飛び抜けています。100点満点で最初から150点のアイデアを思いつく。だからノーベル賞なのです。これに対して我々のような凡人は、100点を超えるような発想などまず出てこない。精々50点クラスがよいところでしょう。
けれども、そのレベルでもいろいろと不思議な現象が起こる。そこに化学実験の面白さがある。例えば化合物Aと化合物Bを混ぜるとします。実験前は化合物Cができると予想している。ところが、時にCではなくDやEができたりする。こんなことが起こると論文のネタになります。仮にDやEではなく、Zのようなとんでもないものができたりするとノーベル賞級の発見となるわけです。
実験では思いもよらないことがたびたび起こります。これが実験科学の面白さで、理論科学ではありえないことです。ただし、その面白さを見つけられるかどうかは、普段の心がけ次第です。
大切なのは虚心坦懐、新しい実験に取り組むときには、結果を常に真っ白な気持ちで見ること。予想外の結果に対して、先入観にとらわれれば単なる実験の失敗と流してしまう。一方、何かあると思って突っ込んで考えると、瓢箪から駒が出てくる。
ルイ・パスツール(※6)といえば光学異性体(※7)を見つけたことで知られていますが、彼の発見も偶然の産物です。彼は偶然の出来事を見逃さなかった。なぜなら、どんな結果に対しても、検証を怠らなかったからです。後にパスツールは「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」と語っています。
院生時代に先輩からよく「化学の実験は千三つ」だといわれました。要するに1000回実験したら、3回ぐらいは何か発見がある。ということは一日3つずつ新しい実験を繰り返せば、1年で3日ぐらいは発見の楽しみに恵まれる。打率にすれば、わずかに3厘にすぎないとはいえ、諦めずに続けていれば必ず報われる。それが化学なのです。
そもそも化学反応の途中経過を目で見ることは不可能。反応はナノスケールの現象です。途中の過程は考えるしかない。想像以外の変化が起こった理由は、予想とは異なる部分が反応したからでしょう。そこを突き止めるのが、研究の醍醐味です。
しかも世の中には100以上の元素があります。これらを組み合わせ、触媒を使えば、化学反応の可能性は無限大と言っていい。この先、何が起こるかわからないという意味で、有機化学ほどおもしろい学問領域はありません。
- 本文脚注
- ※5:セレンディピティ(serendipity) …… ふとしたことから、思いがけない価値あるものが発見されること。
- ※6:ルイ・パスツール …… 1822年、フランス生まれ。生化学者、細菌学者であり、コッホとともに近代細菌学の開祖とされる。分子の光学異性体を発見し、ワインやビールの腐敗を防ぐ低温での殺菌法を開発。
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※7:光学異性体 …… 分子構造が、正確に鏡写しとなっているような関係にある2つの物質のことをいう。サリドマイドが有名であり、当初鎮静剤として開発されたサリドマイドを妊婦が服用すると、新生児に重大な障害をもたらす事故が起こった。その原因となったのが、サリドマイドの光学異性体である。