Special Interview
京都大学名誉教授
藤田 正勝 氏
1949年生まれ。78年京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。82年ドイツ・ボーフム大学大学院博士課程修了。哲学博士。京都大学文学部助教授、京都大学大学院文学研究科教授、総合生存学館教授を経て、現在に至る。専門は哲学、日本哲学史。著書に『西田幾多郎―生きることと哲学』『哲学のヒント』(ともに岩波新書)ほか多数。
自ら主体的に思索し、
オリジナルをつくり上げる
京都大学といえば、「哲学」。日本を代表する哲学者・西田幾多郎をはじめ、数々の哲学者・思想家が輩出した。そこで学び、教壇に立った藤田正勝氏に話を聞いた。
「人は何のために生きているのか」を考えるために哲学の道へ
京都大学に進学を志望したのは、もともと京都大学に憧れがあったからです。私の少年時代は、京都大学理学部出身で1949年に日本人で初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹先生が盛んに新聞などに取り上げられていました。その影響もあって、京都大学の理系に進んで研究するのも面白いかなと思ったのです。
京都大学の哲学へと志望変更したのは高校2年生の秋くらいのことでした。高校3年生の文系理系の振り分けを前にして、将来について真剣に考えたのです。もともとは数学に強い関心をもっていました。ただ、仮に数学を研究する方向に進んだとしても、長い間研究していくうちに、その過程のどこかで「いったい何のために自分はこういう研究をしているのだろうか」という疑問が湧いてくるんじゃないか。そんな気がしたのです。もし数学の研究に進んだ後にそう考えるのであれば、「人は何のために生きているのか」「何を目指して生きていくべきか」といったことをあらかじめ先に考えた方がいいのではないか。そう思ったのです。それで「哲学」の道に進もうと決めました。
京都大学入学後は、カルチャーショックのようなものを受けましたね。私が入学した頃は浪人生も多く、身のまわりには、広くいろんな事柄を知っている博識の学生も多かったのです。大学に入学してすぐだというのに、すでにニーチェの本をほとんど読んでいる人もいましたし、「君たち、こういう本を読んだことがあるか」と尋ねられて、私は「知らない」と答えることも少なくありませんでした。高校時代から政治の問題に関心があるような人たちからは、議論をふっかけられて答えに窮することも。「私は何も知らない状態で大学に入ってきたんだな」と感じる場面が多くありました。
先に述べたような意識をもって入学したのですが、実際に学んだり、研究したりするようになると、入学前に思い描いていたことを深くじっくり考える時間はなく、ギリシャ哲学やドイツのカント、ヘーゲルなどの「古典をしっかり読む」ことに時間を使わざるをえませんでした。あるいは、それらを巡って書かれた研究論文を読んだり、最新の研究をフォローしたりすることが重要になってきました。そうしているうちにそれだけで手一杯になってくるのです。高校時代に抱いた疑問に立ち戻って深く考えるということはなかなかできませんでした。
ただ、最近、『はじめての哲学』(岩波ジュニア新書)という書籍を執筆する機会があり、もう一度初心に立ち戻って、あらためて「何のために生きるのか」「何を目指して生きればいいのか」という問題について、じっくりと真剣に考えることができました。この年齢になって、今まで考えようと思いつつも、なかなか考えられなかった根本の問題について取り組む機会ができてよかったなと、今、思っているところです。
人生の大きな転機となったドイツでの留学経験
京都大学文学部哲学科卒業後は大学院に進み、研究者の道を選びました。日本でまずドイツの哲学、とりわけヘーゲル哲学を学びました。
ヘーゲル哲学を選んだ理由や、ヘーゲル哲学の魅力を一言でお伝えするのは難しいのですが、やはり「弁証法」に魅力を感じました。弁証法を簡単に、ごく形式的に説明しますと、「正(テーゼ)」と「反(アンチテーゼ)」という対立・矛盾するものから「合(ジンテーゼ)」という、正や反を超えた高次元のものが生み出されてくるという思考法のことです。現実の世界を固定したものとして捉えるのではなく、変化・発展するものとして捉えるという考え方にもつながっていきます。そういった動的な歴史の捉え方がとても魅力的でした。私たちの社会が直面しているさまざまな問題を考える上で、それが何かヒントになるのではという思いがあり、ヘーゲル哲学を学んだのです。
1982年、特にヘーゲルの研究を深めるためにドイツのボーフムという街にあるヘーゲル研究所に留学しました。このとき、留学先に入る前の2ヶ月間、ドイツ語の語学学校で学びました。私自身、振り返ってみると、ドイツに渡って最初の2ヶ月のこの経験が、非常に大きな転機となったと感じています。
語学学校の同じクラスには、いろんな国の生徒がいました。メキシコだったり、ベナンだったり、マケドニア、ルーマニア、韓国だったり。そのクラスでの2ヶ月間、ほぼ同じレベルのドイツ語能力をもったクラスメートと非常に多様な問題について自由に議論をしました。そのときに、クラスメートがどこから来ているかということは気にならず、国というものをまったく意識しなかったのです。同じ人間として議論し合う、そして共感し合う。肌の色も性別も違うし、国籍もさまざまですが、そういう違いをまったく感じなかったのです。同じ人間として、同じドイツ語を学ぶ人間として、分け隔てなく議論できる、しかもわかり合える。テーマは、映画であったり、小説であったり、あるいは当時の社会問題・環境問題であったりとさまざまでした。それは非常に重要な経験であり、大きな財産になったと思います。
ヘーゲル研究所に行ってからも、こうした国の違いを意識せず同じ人間として接する経験は続きました。私が師事したのは、ヘーゲル研究所の所長でもあったオットー・ペゲラー先生でした。そのペゲラー先生も、研究所にいる方々も、「日本人だから」とか「ドイツ人だから」といったことをまったく考えずに研究に協力してくれるのです。研究者として分け隔てなく接してくれる。しかも、立ち止まってしまったときには手を差し伸べてくれる。こういった経験をしたのは私にとっては非常に大きなことでした。
私にとって初めての海外経験でしたけれども、若いときにこうした経験ができたのは本当によかったです。だからこそ、現在、新型コロナウイルスの影響で、海外に出かけるのが難しくなっている状況は残念です。若い人たちが自由に海外に出て、そういう経験ができるときが早く来るといいのになと、心から思います。
もう一つドイツの大学で学んでいて私にとって大きな転機になったことがあります。ペゲラー先生がヘーゲルやハイデガーについての講義をされている際に、時々、西田幾多郎や弟子の田邊元のことを話されることがあったんです。私にとってそれが非常に新鮮でした。それまで私は、「ドイツの哲学はドイツの哲学」「日本の哲学は日本の哲学」、両者はまったく別のものだという認識でいました。しかし、ペゲラー先生の講義を聞いているうちに、「そういった区別はないのだ」「何も壁を置く必要はない」「同じ土俵でドイツの哲学を語ったり日本の哲学を語ったりすればいい」、そういう印象を強くもったのです。
つまり、「○○国の哲学」といった限界を設ける必要はない。どの国の哲学であっても共通の地盤の上で考えていくことができる。そう感じたからこそ、私は帰国してから日本の哲学、とりわけ西田哲学、京都学派の哲学に、強く引き込まれていったのです。