2人の地震学者、大森と今村の確執
そのあとを襲ったのが、ミルンや関谷に教えを受けた大森房吉(ふさきち)である。
帝国大学理科大学物理学科を卒業し、イタリア・ドイツ留学から帰国した明治30年、教授に就任する。卒業から7年、29歳の若さだった。
大森は、初期微動継続時間から震源距離を導く「大森公式」や、余震が次第に減っていく規則性についての「余震の大森公式」を発見し、また大森地震計を開発するなど、明治・大正期地震学をリードした。
地震学講座には大森より3年後輩の今村明恒(あきつね)助教授もいた。
今村は本来の身分は陸軍教授で、東大では無給の助教授を22年間続け、大森が死去してやっと53歳で教授に昇進できたのである。これだけでなにやら不穏な人間関係を感じるが、二人は学問上のスタンスの違いからもギクシャクした関係にあった。
明治39年新春、今村助教授の論文を適宜引用した記事が東京二六新聞に出た。今村論文は地震への備えを説いたものだったが、新聞記事は地震予知に関する部分を都合よく引用して今にも東京を大地震が襲うだろうとするセンセーショナルなものだった。また大正4年の東京群発地震の際の記者発表での今村の説明のしかたの拙さで東京市民がパニックに陥るという事態が発生したこともあった。
これに対し大森教授は、地震の予知はできない、今すぐ大地震が来るなどというのはデマであると、今村の説明を徹底的に否定した。今村は結果として「法螺吹き」のレッテルを張られてしまう。
ところが、「今後50年以内に東京に大地震が発生する」という今村の予言は、関東大震災によって実現されてしまう。今度は大森が非難されることになる。