漱石は一生教授になれない
なお、東大では明治26年にイギリス語イギリス文学講座が設けられたが日本人の講座担当者は任命されない状態が長く続く。つまり英文関係で日本人の教授・助教授は東大には存在していなかった。
初めての講座担当者は英語学では大正5年、英文学では大正14年である。「漱石が東大でがんばっていても、死ぬまでに教授になれたかどうか疑わしい」と言うのは小谷野敦 [7] である。
ところで大学教育批判の「筆記」、「暗記」、「試験」の三大噺はその後も続く。大正7年に出された臨時教育会議の答申に付された希望事項には大学教育について、「学生を試験勉強や暗記から解き放って自学自由の習慣をつけること、(……)点数による評価制度を廃止すること」とある [8]。こうした声は現代でも耳にする。東京大学の「学部教育の総合的改革について(答申)」(平成25年6月13日)では現在の東京大学の教育の問題として次のような課題を列挙する。
- 学生をめぐる課題:学習態度の受動性、点数至上の価値観への偏りの傾向
- 学部教育システムをめぐる課題:予習・復習時間の確保が難しい細切れ・詰め込みのカリキュラム/双方向の教育・体験型学習の少なさ
- 教員をめぐる課題:「教え授ける」(ティーチング)から「自ら学ばせる」(ラーニング)への意識転換の不足
なにやら百年前の大学批判とよく似ている。試験・詰め込み・受動性、これらはどうやら大学教育にとっては古くて新しい問題のようだ。
- 本文脚注
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- 小谷野敦『文学研究という不幸』
- 文部省『学制百年』