文学散歩【4】三四郎の本郷キャンパスツアー(最終回)

『東西両京の大学』の東大批判

明治36年に讀賣新聞に連載された『東西両京の大学』は東大と京大の比較論である。東京帝国大学と、明治30年に新設された京都帝国大学の、主に法科に焦点を当てて教育制度や教員の資質を比較しながら述べる東大批判の書である。

そこには東京帝大法科について、「彼等をして試験の奴隷たらしむる」とか「その講義筆記を金科玉条としてこれが暗唱に全力を注ぐの外、別に教師の学説を叩き、研究についての指導を乞うの機会なきをもって、勢いその教育法が注入的に傾き、ただ条文の暗唱に了らんとするの傾向ある」[3] などとある。

小栗風葉の代表作『青春』は明治38年から翌年にかけて読売新聞に連載された煩悶青年と堕落女学生の、出会いと恋愛そして社会的破滅までを描く長編小説。その一場面、東京帝大文科大学学生の関欽哉は女学生・小野繁に向かってこう言う、「今日の学問教育は到底規則的、秩序的で無ければ頭に入らないようになっている。何でも学問するには筆記と諳記!人を作るのは月謝と試験!」[4] と言う。場面は大森の宿の密会。煩悶青年を気取る主人公が女学生を誘惑するためにいうセリフだが、だからといって、否、だからこそ、事実に基づいた叫びと言えるだろう。

このように見てくると、大学の教育を「筆記」、「暗記」、「試験」の三大噺で批判しようとするのはどうも常套的表現とも見えてくるし、漱石もその流れに掉さしているように見える。

本文脚注
  1. 斬馬剣禅『東西両京の大学』
  2. 小栗風葉『青春』