文学散歩【8】太宰治、仏文黄金期のはぐれ者(その1)

「インテリ・セレブ」な推理小説家

いまわれは、この講堂の塔の電気時計を振り仰ぐ。試験にはまだ十五分の間があった。探偵小説家の父親の銅像に、いつくしみの瞳をそそぎつつ、右手のだらだら坂を下り、庭園に出たのである。これは、むかし、さるお大名のお庭であった。

安田講堂の右手の坂を下っていく。「探偵小説家の父親の銅像」とは、かつての総長・浜尾新(あらた)の像である。その子の探偵小説家とは浜尾四郎。堀啓子氏によれば「最も華麗なる背景を持つミステリー作家」であるという(『日本ミステリー小説史』)。

浜尾四郎は医師・加藤照麿の子として生まれた。祖父は加藤弘之、東京大学初代綜理(東大HPの「歴代総長」のページでいちばん最初に載っている人)である。四郎は東京帝国大学法科大学に入学した年、浜尾新の娘と結婚、入り婿で浜尾姓となった。

卒業後は検事、のち弁護士となるかたわら、昭和4年、「彼が殺したか」で探偵小説家としてデビューした。「殺された天一坊」、「悪魔の弟子」、「殺人鬼」など、司法の欠陥を訴える作品が多い。

ちなみにこの頃活躍した東大出身のミステリー作家には他に、小酒井不木(こざかいふぼく・医学部)、甲賀三郎(工学部)、正木不如丘(まさきふじょきゅう・医学部)がいる。浜尾と異なり、理系出身が多い。堀氏によると「理系畑出身ならではの正確な科学的知識に裏打ちされたリアリティーを備えた内容が、こののち日本のミステリーを向上させ、新たなムーブメントを形成していった」のだそうだ(前掲書)。

多芸多才のインテリ・セレブの浜尾は神に愛されたのか、40歳の若さで急逝してしまう。それは昭和10年10月29日だから、太宰のこの短編が発表されてすぐのことである。

岳父・浜尾新は2度にわたって東大総長となった人物。2度目の就任は、「戸水事件」(明治38年)で山川健次郎が総長を辞した後である。山川の辞意表明後も、戸水寛人教授解任に反対する教授らが連袂して辞表を提出、混乱は続いていた。そこで穂積陳重、穂積八束、菊池大麓らは事態収拾の適任者として浜尾に白羽の矢を立て、その総長就任を首相桂太郎に認めさせた。浜尾は「辞表を提出せる諸教授の留任、並びに或る程度の大学の独立」(『男爵山川先生伝』)という条件を政府に飲ませて就任した。

「土木総長」と異名をとり、学内の整備に尽力、正門、銀杏並木、大講堂の配置は浜尾のアイデアである。大正15年逝去。銅像の竣工は昭和8年だから、「われ」が「いつくしみの瞳をそそ」いだ銅像はつい2年前にできたばかりのものだったわけだ。

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