野々宮さんのコンドル作品評
外部の埃と暑さから逃れて門を入る。「さすがに樹の多いだけに気分が清々した」三四郎が、理科大学本館で小使を居眠りから覚まさせて、「すこぶる閑静」な内部に入り地下へと案内されるのは異界探訪のようだ。穴倉の主の野々宮さんは「現実世界と交渉のない」実験をしている。
奇妙な実験装置を見せられた三四郎は外に出て、西日を受けて輝く工科大学の建物(構内図で正門左のロの字の建物)を眺めながら三四郎池にやってくる。
「非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。(…)電車さえ通さないという大学は余程社会と離れている」と思った三四郎は「電車よりも、東京よりも、日本よりも遠くかつ遥かな心持ち」になって「孤独」を感じる。
このあと里見美祢子に邂逅するのだが、ここは有名な場面だから省略。「何とも言えぬ或物」の出現に「孤独」を攪乱された三四郎は「矛盾だ」と呟く。
そろそろ外界に戻らなければならない。異界から連れ出してくれるのは野々宮さんだ。実験をやめて穴倉から出てきた野々宮さんは美祢子と会っていたようだ。ポケットには美祢子からの手紙が入っている。池の西側の土手上から対岸に見える「法文科大学」と、先ほど三四郎が見た「工科大学」の建築評論を三四郎に語る。
実は「法文科大学」はジョサイア・コンドルの初期の代表作、「工科大学」はコンドルの弟子・辰野金吾の作品なのである。構内のいくつもの建築物の中から、明治・大正期建築界の二巨匠の作品を取り上げて比較したのは、この二つが誰の眼にも際立つ建築物だったゆえか、それとも2年間のロンドン生活を経験した漱石の鑑識眼の高さゆえかはわからない。
ジョサイア・コンドルは、工部大学校で日本人建築家を養成するためにイギリスから招聘された、いわゆる「お雇い外国人」である。明治10年から17年まで教鞭をとり、辰野金吾、片山東熊、曾祢達蔵らを育てた。その学識は豊かで「建築論、歴史から構造まで今日の建築学の体系をすべて含」[4] んでいたという。
一番弟子の辰野に教授職を譲った後も日本に留まり数多くのまた多様な建築を設計した。鹿鳴館、上野博物館など、震災、戦災、老朽で多くが失われたが、幸運なことにわれわれはいくつかの現存する彼の作品を見ることができる —— 旧岩崎邸庭園洋館、ニコライ堂、綱町三井倶楽部、清泉女子大学本館(旧島津邸)、旧古河庭園洋館、そしてレプリカではあるが三菱一号館。
コンドルの銅像が東大工学部1号館前の大イチョウ横に建てられているのは、前述のように工部大学校は帝国大学に併合されて、実質的に東大工学部の前身となったからだ。
なお、工部大学校は工部省が工学人材養成のために設置した学校で虎ノ門にあった(現在の文部科学省の南西端から外堀通までの一帯。江戸時代は日向延岡藩上屋敷)。その教育は、「理論と実践の統合をめざし」、土木、機械、電気、造家(建築)など七科からなり、当時のヨーロッパにも例を見ない「革新的な学校」であったという[5]。
- 本文脚注
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- 藤森照信『日本の近代建築(上)』
- 天野郁夫『大学の誕生(上)』