できたばかりのベルツの銅像
三四郎池の土手に戻ろう。
歩き始めた野々宮さんは「これが御殿」と教授会の行われるところを教える。この「御殿」は現在の山上会議所。当時は和風の木造二階建てで前田家の御殿をそのまま使っていた。「うむなに、僕なんか出ないでいいのです」と言う野々宮さんはどうも講師の身分らしい。モデルと言われる寺田寅彦も当時は理科大学の講師だった。漱石も東京帝国大学では英文科の講師であり、教授会には出なくてよかった —— 出ることができなかったのだ。
野々宮さんと三四郎は構内図に「南新門」とあるところから外に出る。現在の龍岡門にあたる。
門の手前でベルツの銅像を二人は見る。その位置は構内図で壁龕のように土地を削ったところがあるので確認できる。現在の位置(御殿下運動場のすぐ横)より南にあった。
医科大学で長年にわたって日本人学生を教育した、内科学のベルツと外科学のスクリバの顕彰碑である。この二人もコンドル同様「お雇い外国人」である。
ベルツは東京医学校時代の明治9年から、スクリバは東京大学医学部となったあとの明治14年から教壇に立った。森鷗外は明治14年の卒業だからスクリバとは入れ違いだが、ベルツの教えは受けた。『雁』の主人公岡田の洋行話は「Baelz 教授」の紹介だった。
この顕彰碑は明治40年4月に除幕式が行われた。漱石がわざわざこの銅像の前に二人を立たせたのは、まだ新しいモニュメントを読者に紹介するためだったのかもしれない。ちなみにベルツが医科大学を退職したのは明治35年、「身も心もそのままの『江戸っ児』」[6] の妻ハナ(花)を伴いドイツに発ったのは明治38年6月だった。ついこの間まで教鞭をとり、あるいは皇族方を診察していたことになる。
南新門から春日通に出た。「表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る」。野々宮さんは穴倉の住人とは別人のように、本屋で立ち読みをする、日本小間物屋の兼安(現在も本郷三丁目の角で営業している)で美祢子にプレゼントするリボンを買い、三四郎に西洋料理をおごる。
こうして大学の内と外の世界が示されて『三四郎』の世界は「色々に動いて来」[7] 出した。
では当時の大学の教育の実態は?…それは新学年の講義が始まってから描かれるだろう。作者の「自分のみが知っている世界」の描写はまだ続く。
- 本文脚注
-
- トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記 第二部』
- 夏目漱石「『三四郎』予告」