太宰治の第一創作集『晩年』に収められている「逆行」は4編からなるオムニバス作品である。そのうちの3編は「文芸」昭和10年12月号に発表されたもので、「盗賊」と題された残り1編は帝国大学新聞に発表された。帝国大学新聞は現在の東京大学新聞の前身である。
関東大震災が発生したとき、東京帝国大学法学部の学生だった林房雄は故郷の大分に帰省していた。大分中学校(現・大分上野丘高校)、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)を経て東大に進学したが、東大に入学したのではなく「新人会に入学した」のだという。大震災の年に帰省していたのは、故郷でのオルグ(組織拡大)を行うためだった。
本郷キャンパスには関東大震災の痕跡はほとんどない、と前回述べたのだが、2014年のある時期だけ、震災で焼失した旧図書館の跡を目にすることができた。それは現在進められている「新図書館計画」の工事の過程でのことであり、総合図書館正面前の広場を掘削すると、旧図書館の基礎部分が現れたのである。
三四郎が歩いた本郷キャンパスの建築群は大正12年9月の関東大震災でほとんどが焼失してしまった。震災以前からの建物は理学部化学館など数少ない。安田講堂は震災前に着工して震災後に竣工したので、震災の被害の痕跡は見られない。
井の哲(井上哲次郎)の教えた「約三千人」の中に数えられているのかどうかわからないが、三四郎も講義を聴いていたものの「ドイツの哲学者の名が沢山出て来」ると理解しにくくなった。
9月11日、新学年の開講日だ。新入生・小川三四郎は勇んで登校するが教授もいなければ学生もいない。翌日気を取り直して登校。正門を入ったところで構内を見渡す。写真は当時の本郷キャンパスの、正門付近からのパノラマ写真である。三四郎はこの眺めをじっくりと味わう。正面の銀杏並木、その先の坂の下にある理科大学は2階部分だけが見えている。先日野々宮さんを訪問した所だ。
夏目漱石の『三四郎』は明治41年9月から12月まで朝日新聞に連載された。江藤淳によれば、朝日新聞入社後に連載した『虞美人草』や『坑夫』の評判があまり芳しくなく、そのため今度の連載は「起死回生の作品」とすべく「自分のみが知っている世界のみを描くという戦略」をとったのが『三四郎』だという。
参謀本部陸軍測量部が明治9年から17年にかけて行った測量によって作成された『五千分一東京図測量原図』には2つの「東京大学」が記されている。ひとつは神田錦町で、現在で言えば共立女子大学の高層校舎の向かいにある学士会館から南、日本橋川までにかけてのエリア。もうひとつは現在の東大本郷キャンパスであり、こちらは「東京大学医学部」とある。