佐藤薫教授インタビュー

Special Interview

東京大学大学院理学系研究科教授 PANSYプロジェクトリーダー 佐藤 薫 氏

東京大学大学院理学系研究科教授
PANSYプロジェクトリーダー
佐藤 薫 氏

1984年東京大学理学部地球物理学科卒業。86年同大学院修士課程地球物理学専門課程修了。企業に就職を経て、91年京都大学大学院理学研究科博士後期課程地球物理学専攻修了。理学博士。京都大学大学院助手、国立極地研究所助教授などを経て、2005年から現職。南極の昭和基地に大型大気レーダーを建設するPANSY計画を提唱、プロジェクトリーダーとなる。専門は気象学。

世界で初めて大型レーダーを南極に設置することを目指して

世界で初めて南極に大型大気レーダーを設置し、観測する計画「PANSY(パンジー)」。温暖化による気候変動やオゾン層破壊の実態把握につながる。このプロジェクトの発案者であり、リーダーが佐藤薫氏だ。

研究対象は「大気の大循環」
大気にも波がある

私の取り組みを一言で表すなら「大気の波の研究」です。海に波があるように、大気中にも目には見えない波があります。いろいろな大きさの波が地上付近で発生し、高い高度においては「大気の大循環」を起こしているのです。実は、この大気の波があるということ自体はずいぶん前からわかっていて、人工衛星での観測も1970年代には始まっているのですが、大気の大循環の仕組み自体はまだ解明されておらず、現在研究を進めています。

このように話をすると、すごく難しいことのように聞こえるかもしれませんが、大気の波はみなさんにもなじみがあるものです。例えば、天気予報で目にする温帯低気圧、移動性の高気圧も大気の波の一つです。また、富士山の上に帽子のようにかかる「笠雲」も、大気の波からできています。「笠雲」は富士山に沿って風が流れ、上昇流となるところで水蒸気が凝結してできる雲なのです。

私たちのまわりには、大気の波によっておこる現象がたくさんあるのですが、面白いのはそれが上のほうに伝わっていくと、グローバルな大気の大循環をつくるということです。大気圏はその高度によって、地上に近いところから「対流圏」「成層圏」「中間圏」「熱圏」に分けられますが、私が主に研究しているのは、対流圏の上に位置する高度約10~100kmの大気である「中間大気(成層圏、中間圏、下部熱圏)」です。成層圏では、大気が「赤道域で上昇し、南極で下降する」という大きな流れをつくっていて、冬は中間圏から下降が始まるのですが、下降するときに私たちの頭の上の対流圏まで戻ってきて、地上の気候に大きな影響を与えています。つまり、空のずっと上で起こっている大気の波の活動が、日頃の天気にも影響するということがわかってきたのです。

中層大気の研究が大切なのは、気候の長期予測に役立つからです。今、天気予報は5日後くらいまでは当たりますが、この研究が進めば、長期スケールでの予測が可能となります。「今年の夏や冬の気候はどうなるか」といった予報の精度を上げることにつながるのです。

転機となった国立極地研究所
南極巨大レーダー構想を立ち上げる

大気の大循環を知るためにはさまざまな研究手段が必要なのですが、私は南極に非常に大きなレーダーを設置することで、この研究を進めています。南極というのは過酷な環境にあるため、長い間近代的な観測機器が持ち込めず、研究が遅れた地域となっていました。何か設備を設置するにしても、地表が出ている夏の1ヶ月に限られます。風が強く、寒くて、吹雪く。条件の厳しい土地なのです。

また、人の行き来も極端に限られています。日本の場合は、観測船「しらせ」で年に1回行き来するだけ。昭和基地に入れるのは全部で80人くらいですが、1年2ヶ月弱を過ごす「越冬隊」は30人ほどで、マンパワーも非常に限られています。そういった環境的にも人的にも難しい状況にある南極に、現代的で巨大なレーダーを建設し、「南極大気科学を精密科学にする」というのが目的でした。南極での観測が可能になれば、地球の温暖化による気候変動やオゾン層破壊の実態把握につながるのです。

私は東京大学修士課程を修めた後に一度就職したものの、やはり自然科学系の研究をしたいと思い、退社して京都大学の博士課程に入りました。京都大学を選んだのは、「MUレーダー」という大型大気レーダーを運用し、これを用いた研究が精力的に進められていたからです。しかし博士号を取得後、研究を続ける中で、ふと「私の研究はMUレーダーがあるからこそできる『消費型の研究』ではないか」という思いが強くなり、「自分で新しいものをつくりたい」と考えるようになりました。

転機が訪れたのは、そのように考え始めたタイミングで、国立極地研究所(極地研)に移ったときです。私は極地研に赴任してまもなく、自己紹介代わりに研究セミナーをすることになりました。当時の極地研には女性が非常に少なく、教員は私で3人目、助教授(現在の准教授)では2人目でした。そのため、セミナーにはずいぶん人が集まりました。せっかくなので、「ちょっと大きなことを言ってみよう」と思い、「MUレーダーのような大きなレーダーを昭和基地に建てると、すごい研究ができると思います」と言ったのです。ただ私自身、これは絶対できないと思っていました(笑)。他のどの国もそんな大型レーダーは極域に設置していませんし、そういった計画を耳にしたこともありませんでしたから。

しかし、それを聞いていた副所長が、「検討してみなさい。僕がバックアップするから」と言ってくださったのです。発表した私自身が「できっこない」と思っているのに、「できると思う」と。びっくりするのと同時に、非常に感動したのを覚えています。

それでスタートしたのが、「南極昭和基地大型大気レーダー計画(PANSY)」です。ただ、それからすごく苦労をしました(笑)。計画したのは2000年ですが、アンテナの設置が始まったのが10年、アンテナの一部を使った観測が12年から開始され、15年にやっとすべてのアンテナを使った観測が開始となりました。

実現可能かを見極めるために、越冬隊員となり、南極で過ごす

計画をスタートしたばかりの頃には、反対意見もかなり上がりました。批判の中でよく耳にしたのは、「佐藤さんは南極に行ったことないから、やろうなんて言うんだよ」というものでした。確かにそれももっともだなと思ったこともあり、まわりにあれこれ言われて決めるのではなく、「本当にできるかどうか、自分の目で確かめよう」と考えるようになりました。そこで2002年、「第44次南極観測隊越冬隊員」として1年2ヶ月を南極で過ごすことに決めたのです。

滞在期間が長いですから、レーダー設置のリサーチ以外にもさまざまな研究観測を行いました。その中でもメインとなったのは、気球を使った観測です。気温や風を測るラジオゾンデ、オゾンを測るオゾンゾンデという観測器を気球につけて打ち上げます。滞在中、ラジオゾンデを50発、オゾンゾンデを100発撃打ち上げました。特にオゾンゾンデは、打ち上げ準備に1発当たり8時間ほどかかるため、結構忙しい毎日となりました。

これらの観測は国際共同で行われ、ドイツ、フランス、アメリカ、オーストラリア、イギリスなどの国々とともに進められました。共同観測と言っても、各国の基地は何千キロと離れていますから、もっぱら電子メールでのやりとりです。しかし、昭和基地という閉ざされた空間でも、「世界の研究者と共に研究をしている」という誇らしい気持ちを持つことができました。

忙しく研究をしながら南極で長い冬を過ごし、「この計画は進めるべきかどうか」と考え続けた後に私が出した結論は、「できないと思えない」というものでした。できると確信は持てないが、絶対にできないともいえない。それで、検討を進めることにしたのです。このように、実際に自分自身の目で見て決定したからこそ、その後どんなに大変でもなんとか続けることができたのだと思います。