Special Interview
社会学者
上野 千鶴子 氏
1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了、平安女学院短期大学助教授などを経て1993 年東京大学文学部助教授、1995 年東京大学大学院人文社会系研究科教授。現在、認定NPO 法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。
日本の女性学のパイオニア。「自分の問いは自分で解く」という人生を歩んできた上野さんが研究に賭けてきた想いを振り返る——
大学闘争に時間を費やし、私怨で女性学を育てた
京都大学に入った理由?簡単に言うと、親の家を出たかったからですね。当時は金沢に住んでいて、父は内科の開業医で、典型的な日本の家父長でした。私は高校の理系進学クラスで学んでいましたが、地元の大学の医学部に進めば、親の家を出ることができません。そこで父は、すでに進学して関西に住んでいる兄と同居するなら家を出てもよいと。兄の下宿先から通えて、なおかつ授業料の安いところが京都大学だったのです。
社会学を専攻したのは消去法でした。文学も語学も興味がないし、過去を相手にする歴史もまっぴら。社会学は当時、勃興中の学問でした。何を学ぶのか見当もつきませんでしたが、その新しさに惹かれたのかもしれません。ところが、入学したその年に大学闘争が勃発。大学はバリケードで封鎖され、私はその裏でおにぎりを握っていました。バリケードの中で暮らしているようなものでしたね。私も大学解体を叫ぶ側にいましたが、誰しもが勉強どころではない。そういう時代だったのです。
大学院に進学したのはモラトリアム(社会に出る期間を延長する執行猶予期間)が動機でした。大学闘争は敗北に終わり、就活するのも朝起きるのさえもイヤで、今後の人生を思うとお先真っ暗な状態。そんなときに出会ったのが「日本女性学研究会」という、ウーマン・リブ運動の影響を受けてアメリカで生まれた研究を積極的に推進しようとする民間団体でした。友人に誘われて「1回だけ見てみよう」と軽い気持ちで参加したら、もう目からウロコでしたね。女性が自分自身を研究対象としてよいのだと。それまでの私は、学問研究は常に中立的・客観的でなければならないと思い込まされてきました。このときに、自分を研究対象にできると気づいたことで、初めて自発的に何かをやろうという気になりました。
当時はもちろん『女性学』という学問は存在していませんでした。だから、研究ではなく“趣味”ですね。それでも勉強し、論文を書き、学術誌を作り、仲間と共同研究に取り組みました。学界では女性が担った女性研究は「主観的だ」と批判されました。当時は、歴史学者のおじさんが平然と「女と民衆に歴史はあるのかね」と発言していた時代です。歴史上のエリートは全員男性で、女性の肩書は常に“○○の妻か娘”だった。では、男性が女性研究に取り組めば客観的になるのか、というとそうではない。女性蔑視か、はたまた崇拝の対象にするか、いずれにせよ妄想のかたまりじゃないかと思いました。こうした妄想を一つひとつ打ち砕き、地道に種をまきながら、自分たちの手で『女性学』を育てていったのです。