教師として奮闘した日々は女性学の研究現場そのもの
ある日、ふと京都新聞の求人欄に目が留まりました。女性の就職口として掲載されていたのはホステスや事務員、夫婦で住み込むパチンコ店くらいで、後はすべて男性向けの求人しかなかった。そのとき、自分が無芸無能で何の資格も持たない、もう若くない女だと気付いたのです。これはもう、大学教師を職にするしかないと思い、公募で京都の平安女学院短期大学(現・平安女学院大学短期大学部)の講師になりました。専任講師として一般教養の社会学を担当しましたが、学生の反応は正直で、面白い講義だと身を乗り出すし、つまらないとすぐにそっぽを向く。「よーし、この子たちを振り向かせよう」と燃えましたね。彼女たちと共に過ごした10年間は女性学のよい研究現場でした。何より私にとってはかけがえのない経験になりました
女性学の看板をアカデミアの中に掲げようと具体的に動き出したのは、80年代のこの時期です。日本の大学・高等教育に大きな構造変動が起き、既存の分野を横断した総合講座ブームが各大学で沸き上がりました。様々な社会問題を学部・専門を超えて学ぶ取り組みで、その中の“人権”のテーマに「女性」を組み込むことができました。立ち上げ時は、それはもう苦労の連続で、最初は自主講座からでした。新しいカリキュラムを作成して教授会に提案すると「女性学、それは学問ですか?」と言われ、悔し涙を流したことは今でもはっきり覚えています。
女性学に対する周囲の状況が変わってきたのは1980年代後半でしょうか。70年代には日本女性学研究会が設立し、『女性学年報』などのジャーナルが刊行され、相次いで設立された他の女性学研究団体との横断的なネットワークができていましたが、しだいに関心が高まり、女性学を学びたいという学生が大学・大学院に来るようになりました。私が1993年に東京大学文学部助教授として招かれたとき、先輩の男性教師に言われたのが「学生の間で女性学への関心が高まっており、僕らの手に負えませんからよろしくお願いします」と。それまで女子学生の指導教員は全員男性でしたから、聞かれてわからないことは「そんなものは学んでも価値がないからやめろ」と学生を抑圧することもあったようです。このように理不尽な扱いを受けた学生が、駆け込み寺のように私のもとへ集まってきました。ですから私自身は、決して学生を抑圧しないと心に決めていました。教師からの一方通行の講義なんて、つまらないと思いませんか。大学に行く価値は教師と学生の距離が近い少人数制のゼミで、双方向のコミュニケーションから学び合えることです。学生からは、突拍子もない質問が次々と出てきます。その一つひとつに丁寧に向き合い、研究の仕方を伝えて学びの修得の後押しをしてあげる。自分の問いは自分で解くしかないのですから。