第13話 公立医学校廃止の諸相(2)~福岡・鹿児島・熊本の医学校の廃止とその後~

県立福岡病院の発展

しかし病院は残った。

県知事は県下の医師の意見を取り入れて、医学校を「県立病院」に転換する案を県会に提出した。それに対し、病院の恩恵は周辺住民に限られるのだから「福岡区立」とすべきという修正案、及び「完全廃止案」も提出された。完全廃止案は、「大規模な病院の存在は開業医の圧迫に」なるという論拠だったという(『九州大学五十年史』)。しかし採決の結果、知事提案が賛成多数となり、「県立病院」として存続することになった。院長には、医学校校長だった大森治豊が、副院長には熊谷玄旦が就任した。東大明治12年卒業組のコンビが続くのである。

医学校の施設とスタッフをほぼそのまま継承して県立福岡病院は明治21年4月1日に開院した。しかし例えば病室は医学校生の寄宿舎を改造したものであるなど決して満足できる設備ではなかった。この年、九州鉄道会社が設立認可されて鉄道の敷設が進み、博多はその鉄道網の中心になっていった。遠方からも来院しやすくなった中洲の県立病院は患者で溢れ、市内の旅館に投宿して診療を待つ者も多かった。

患者数の激増、施設の老朽化、敷地が狭隘・湿潤、これらの課題に対処するため、明治24年ころから移転計画が進められ、明治29年6月に中洲から筑紫郡千代村字東松原に移転した。現在の東区馬出(まいだし)の九州大学病院キャンパスである。病院内の私設電話、蒸気によるセントラルヒーティング等、最新鋭の設備を備えた病院が開院した。