文学散歩【6】図書館焼失と芥川龍之介

永峰、アダム・スミスを救出す

当時、経済学部研究室には、新渡戸稲造(にとべいなぞう)がロンドンで買い求めたアダム・スミスの旧所蔵本があった。その「アダム・スミス文庫」はひとりの「小使」の活躍によって焼失を免れ、現在でも経済学図書館の宝となっている。

この事情については大内兵衛(おおうちひょうえ・経済学部教授、戦後は法政大学総長)が「どうしても語りつぎたい」と言って語ってくれている。

その「小使」とは永峰巳之助(ながみねみのすけ)という「六十ぐらいの片目のおじいさんだったが、江戸っ児で威勢が」よく、若い頃は「ヤクザで相当なバクチウチ」だったらしい。アダム・スミス文庫を管理していた高野岩三郎(たかのいわさぶろう)教授は、収めた書架に「貴重書」と記し、永峰には「いざというときは、何よりもこの『貴重書』を出せ」と言い聞かせていた。

東京大学経済学図書館の「アダム・スミス文庫」

東京大学経済学図書館の「アダム・スミス文庫」
(画像提供:同図書館)

それから数年後に、あの大地震だ。地震のあった日、あのとき、永峰は火のない角火鉢のところにいた。皆がドヤドヤと研究室の階段を下りた。自分も皆について下りた。はじめは文科の本館は安全であって、もちろん類焼するなど、たれも考えていなかったが、そのうち、それにも火がうつった。黒煙が濛々とそれをつつんだ。そのとき永峰の頭には「貴重書」の書棚がうかんだ。そして彼は敢然として二階にとびあがり、その貴重書棚の本を抱えて出た。そしてそれを何度も何度も繰り返した。そして何百冊かの本は焼失をまぬがれた。スミス文庫もその一つであったのである。そしてそれを運び出した彼は、それから連夜焼け落ちる大学園の煙の中に立ちつづけてこの書物を守った。

ところで芥川龍之介は、図書の管理と利用についても批判している。「古書を高閣に束ねるばかりで古書の覆刻を盛んにしなかった」ことと「徒に材料を他に示すことを惜しん」だことである。

現在では貴重図書のデジタル化が進んでいる。アダム・スミス文庫は「西洋古典籍デジタルアーカイブ」として公開されている。そして新図書館によって更に大がかりな電子化が進む。立花隆氏によれば、「あらゆる人が自分専用のモーバイルアレクサンドリア図書館を持てる」時代が目前に来ているのだそうだ。

参考文献
  • 『川端康成全集 第33巻』新潮社、1982年
  • 『野上弥生子全集 第18巻』岩波書店、1980年
  • 『野上弥生子全集 第Ⅱ期 第1巻』岩波書店、1986年
  • 『芥川龍之介全集 第6巻 小説・随筆6』岩波書店、1978年
  • 大内兵衛『経済学五十年』東京大学出版会、1960年