文学散歩【4】三四郎の本郷キャンパスツアー(最終回)

エキセントリックな漱石の東大批判

夏目漱石は明治40年4月、東京帝国大学講師を辞して朝日新聞に入社した。5月3日の東京朝日新聞には漱石による「入社の辞」が掲載された。『三四郎』連載の1年数か月前である。われわれは漱石の文というと何でも有難がって読んでしまいがちだが、この「入社の辞」はどうも変だ。

大学を辞めて新聞社に入るのを怪訝がる人がいるが、大学と新聞社の間には貴賤はない、というところはまっとうだが、一度大学に職を得てそれにしがみつき続ければやがて教授や博士や勅任官になれることを期待しているのだから大学も「下卑た商売である」と言うあたりになると、首をかしげたくなる。江藤淳は「控えめにいってもこれが不穏当な文章であることとは今更あらためて指摘するまでもない」 [5] と言う。

それどころか、この続きを読む者は唖然とするしかない。大学の自分の講義はまずかったのかもしれないが、それは自分の能力の問題ではない「大学で講義をするときはいつでも犬が吠え」たこと、図書館の「閲覧室へはいると隣室にいる館員が無暗に大きな声で話をする、笑う、ふざける」こと、そしてこの状況を坪井学長(文科大学長・坪井九馬三)が放置したこと、これらが原因であると言う。ほとんど言いがかりのような、被害妄想的なこの文章が「入社の辞」なのである。

江藤淳によると、これを読んで賛意を示す者もいたが、東京二六新聞の「余湍録」は、坪井学長や濱尾総長の不快を伝えている。漱石が給与の安さを離職の理由のように言っているが、東大講師と一高講師を兼任してそれぞれから破格の給与を支給されているのだし、4月に辞職するということは学生たちを放り出すことであるし [6]、2年間の官費留学に対する義務は4年勤めればそれですむだろうとドライに言い切っているのは「余りに功利的にて無責任なり」と非難する。「漱石が自分勝手の不平を口にするは不義理の譏(そし)りを免れじ、と教授連の間にも寄り寄り攻撃の声を聞く」。

「入社の辞」は感情的な大学批判である(批判とも言えないかもしれない)。『三四郎』の中では、教育システムに焦点をあて、当時の一般的な大学批判と軌を一にしたものとして、より穏やかに、ソフィスティケイトして述べているのである。

本文脚注
  1. 江藤淳『漱石とその時代 第四部』
  2. 当時は秋入学で、明治39年〜40年の学年歴は、第1学期9月11日〜12月24日、第2学期1月8日〜3月31日、第3学期4月8日〜7月11日である(『東京帝国大学一覧』明治39-40年)。漱石は第3学期の講義をまるまる放棄したことになる。