第18話 消えていった私立医学校 ~私立医学校の興亡 (3) ~

東大出身講師を多数揃えた「東亜医学校」

東亜医学校はこの時期設立された私立医学校の中では後発の、明治15年(1882年)設立である。目指すところは、東大医学部教員を多数揃えて講義をし、「東京大学医学部の生徒と、学業・技術とも同力の生徒を養成する」ことだという。しかし修業年限は3年であり、他校で学んだ者は半年でも卒業できるというのだから、実態は医術開業試験のための予備校である。

「東大の教員が多数」というのに偽りはない。提出された開業届では、校長は樫村清徳、校主は中島一可となっている。樫村は東京大学医学部教授で内科臨床講義を担当していた。中島は東大で解剖学を学んだ人でのちに陸軍軍医となった。この他に、柴田承桂(しょうけい)、田口和美(かずよし)、三浦義純、小林恒、藤田正方が設立に関わっている。いずれも幕末から明治初期に医学を学んだ人々で、今は東京大学の教員、職員などの地位にあるが、「医学士」ではない。ミュルレルとホフマンが着任して教育課程を整備して以後の正規のカリキュラムを経て卒業した者が「医学士」であり(第11話参照)、上にあげた設立者たちは「旧世代」の医学者である。しかし実際の講義は卒業したての「医学士」に担当させた。明治14年に卒業したばかりの医学士・森林太郎(鷗外)も、谷口謙、菊地常三郎らとともに講義をした。卒業後、陸軍省入りした医学士たちだ。

明治16年(1883年)には「綜理」に岩佐純が就任した。岩佐は、幕末期の長崎でポンペ、ボードインに医学を学び、維新後に相良知安とともに「医学取調御用掛」になり、ドイツ医学採用を推し進めたことは第5話で述べた。その後宮内省侍医に就任した、医学界の重鎮である。

『文部省年報』の明治16年版では教員数25、生徒数は男426、女6とあるから、私立医学校の巨星として有名な「済生学舎」(同年の生徒数は男のみで484人)に比肩する大規模校である。東大医学部関係者を多数講師として招聘した効果だろう。そうならば、これは済生学舎のビジネスモデルの模倣である(済生学舎については第20話で述べる予定)。

また『文部省年報』によると、前年に設立されたばかりなのに卒業者数欄に「26」とある。「半年でも卒業可能」と謳うとおりに、医学は既修だが医術開業試験にはまだ合格していない、いわば「浪人生」も受け入れたからである。

ドイツ留学記念 国立国会図書館『青山胤通』(鵜崎熊吉・編)より転載

ドイツ留学記念
前列右から3人目が樫村清徳、後列右から3人目が中島一可
(なお前列右から2人目は佐々木政吉、後列右端が小金井良精、右から7人目が青山胤通)
国立国会図書館『青山胤通』(鵜崎熊吉・編)より転載

ところが、これほど生徒を集めていながら明治17年(1884年)4月に突然閉校してしまう。

新聞には「一時閉校」の広告が出た。その理由は「今般、本校総理・岩佐純、教頭・樫村清徳、幹事・中島一可、ドイツ国へ航行いたし候うにつき」とある。岩佐は宮内省からの派遣で、樫村と中島は私費で留学するのである。なお、森林太郎が陸軍省派遣で留学したのも同じ明治17年である。

400人もの生徒を抱えていながら突然閉校(「一時閉校」ではなく廃校である。東京府に廃業届けが提出されている)してしまうとは、医学校経営は彼らにとっては片手間仕事だったのだろうか。

ところで、東亜医学校の生徒に「女6」とあるうちのひとりが、埼玉県深谷出身の生沢イクである。東亜医学校の閉校後は済生学舎に移って、明治18年(1885年)に前期、翌年後期に合格した。荻野吟子につぐ2番目の近代女医である。それまで女性を受け入れていなかった済生学舎に生沢が入学できたのは、彼女より前に高橋瑞子が、校主の長谷川泰に直談判して入学したからである。この高橋が近代女医の3人目である。

名医・樫村清徳

東亜医学校校長の樫村清徳は米沢藩医・樫村清秀の子で、幕末から明治初年にかけて西洋医学所、大学東校で学んだ。明治14年(1881年)に東京大学医学部教授となり、すでに述べたように明治17年(1884年)ドイツに私費留学した。翌年帰朝後すぐに大学に辞表を提出する。その理由について『日本博士全伝』(明治29年刊)は、「(東大では)時あたかも改革の挙あり、論ずる所かなわず」としている。

この時期の東大医学部は、外国人教員を漸減し、日本人教員を増やしつつあった。一方で、帝国大学への改組の準備が進んで、樫村が担当していた「別課」(本科とは別の医師速成課程。詳しくは第6話、第8話参照)は明治18年に募集停止、22年には廃止されることになった。外国人教員に代わる日本人教員といっても、それは本科課程を上位で卒業し、文部省派遣の官費留学生となるような俊才でなければならない。森鷗外の卒業席次が8番であったため、文部省派遣留学生に選ばれることも、大学に残ることもできなかったというのは有名な話だ。私費留学から帰国した樫村には、かつての居場所「別課」がなくなり、今後の待遇も本人の期待に添わなかった、それが辞職の理由だったのだろう。しかし、この時東大を去ったのは樫村だけではないはずで、『東京大学百年史 通史一』によると、「(別課の廃止は、明治)十九年三月においてそれ(別課)を担当した10名の日本人教官の解職や非職による人員削減を伴うものとなった」というから、樫村が独り果断に行動したというわけでもなかった。

国家に貢献するのは官に限ったことではないと考え、また周囲の勧めもあって病院経営を決意した。これが明治19年(1886年)10月開業の山龍堂病院である。所在地は神田区小川町40番地で、現在の千代田区神田小川町三丁目10番地、明治大学リバティータワーの南隣りである。

樫村の内科医としての評判はすこぶるよかった。東大にいたころに、器械係の老人は「藪でない証拠に樫と桐を植え」と洒落た。「樫」はもちろん樫村、「桐」は桐原眞節である。この川柳を紹介した入沢達吉(東京帝国大学名誉教授)は、「樫村、桐原両氏などは当時名高い医者であった」と言っている。東大医学部教授ではあるが、別課で臨床講義を担当していて、研究者・教育者というよりは臨床医としての評判が高かった。山龍堂病院は開院から2年をしないうちに増築が行われる盛況だった。

同志社を創設した新島襄が、転地療養していた神奈川県大磯で病勢がすすんだため、東京から呼び寄せられた医師がこの樫村清徳である。新島を診察した樫村は、腹膜炎であって回復の見込みはないと診断した。それから6日後に新島は息を引き取った。明治23年1月23日である。

樋口一葉が診察を受けたことでも有名である。一葉と交流があった馬場孤蝶(英文学者、随筆家)の話を聞いてみよう。孤蝶が彦根中学校(現・彦根東高等学校)で英語教師をしていたころの回想である。

樋口一葉の菊坂旧跡

樋口一葉の菊坂旧跡

(明治)二十九年の八月には私は彦根の学校が休みであったから帰って来て、一度一葉に会った。その時は余程衰えているようでした。とにかく七月頃から大分悪くなって、八月の初めに駿河台の山龍堂病院の樫村という人の診察を受けた。この樫村という人は内科の大家で、青山さん(青山胤通。東京帝大教授、内科学の第一人者)ほどでもありますまいが、とにかく大家の一人である。で、その人に診てもらった所が、もう駄目だということであった。一葉の妹さんの邦子君が、姉さんを毛布か何かにくるんで、八月の月に綿入の着物に袷羽織を着せて、車に乗せて診察を請いに行った。ところが診察を受けて、姉さんを応接室に置いて、妹さんがそっとお医者さんに「どうでしょうか」と聴いた所が、どうも駄目だと言う。実に落胆して、邦子君は何だか腰が抜けたようになって歩くことができない。(略)それから段々病気が悪くなって十一月二十三日に息を引いたのであります。(馬場孤蝶『明治文壇の人々』)

樫村清徳と山龍堂病院の名は、こうして薄幸の患者を通じて今に伝わる。

ところで、2年ほどで消えてしまった「東亜医学校」だったが、それから数年後、「東京医学校」として再興される。その校長は樫村清徳であり、講師に多数の東大医学部関係者を集めるなど、「東亜医学校」の路線を継承する私立医学校である。次話ではこの医学校について述べることにする。

(第18話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)