第18話 消えていった私立医学校 ~私立医学校の興亡 (3) ~

荻野吟子で歴史に名を残した「好壽院」

高階経徳が下谷区練塀町(現在のJR秋葉原駅の北側地域)に開設したこの小さな医学校が有名なのは、ひとえに女子近代医の第1号・荻野吟子が学んだからである。

荻野吟子は武蔵国俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)の出身である。17歳で結婚したが、離婚後に医師を目指す決意をし、20歳を過ぎて学問を始めた。明治8年(1875年)、官立の東京女子師範学校が設立され(お茶の水女子大学の起源)、その第1回生として入学したのが24歳のときである。この年の入学者は74名だったが、明治12年(1879年)に卒業できたのは、3月に15人、7月に18人だった。荻野は7月卒業で28歳になっていた。そして荻野は好壽院で医学を学ぶことになる。その入学の経緯については、石黒直悳の回顧録『懐旧九十年』の記述を参照しよう。石黒は、当時は陸軍から文部省に出向中で東京大学医学部綜理心得(学部長代行)だった。

ある時荻野吟子が永井久一郎(永井荷風の父)の紹介状を持って訪ねて来た。永井は東京女子師範学校の幹事(副校長)兼教員である。彼女が言うには、卒業して教師の口はいくらでもあるが自分は「今から医学を学び女医となりたいと思いますので、先生の御高見を伺いに出ました」。石黒が大いに賛成すると「それではいずれの学校がよいかお示し下されたい」。

石黒は荻野を一旦引き取らせておいて、

それから二、三の学校を問合わせたが、女学生は断るとて応じてくれません。幸いに高階経徳君と同経本君の経営される下谷の好壽院という病院で、貴君の懇請ならば修業させることを引受けよう、というてくれました。

荻野吟子 写真提供 : 熊谷デジタルミュージアム

荻野吟子
写真提供 : 熊谷デジタルミュージアム

好壽院は『文部省年報』(明治12年版)によると、開設は明治12年(1879年)、教師3人、生徒13人とある。石黒が「病院」と言っていることからすると、病院の傍らで医学も教授した塾のようなものだったろう。明治13年版では生徒数は男15、女2とある。医師を目指す女性は荻野だけではなかったのだ。

校主の高階経徳は天保5年(1835年)生まれ。代々典薬寮の医師の家で、本人も明治天皇の侍医になった。元来は漢方医だったが、慶応4年(1868年)2月、父高階経由とともに「西洋医学御採用方」の建白をし、その後は自らも西洋医学を学んだ。明治4年(1871年)に石黒が官僚と衝突して文部省を辞めたとき、宮内省に出仕するように勧誘したのがこの高階である(石黒はそれを断って、松本良順の引きで兵部省へ行った)。明治22年(1889年)3月死去。官報に「侍医高階経徳は一昨二十四日卒去せり」とある。

他の2人の教師は高階経本と徳田周輔。高階経本は東京大学医学部を明治12年(1879年)に卒業した第1期医学士で、そのまま東京大学に奉職した。教職員名簿(明治13年版)には「外科当直医」とある。好壽院は、開校が明治12年だから、経本の卒業を機に設立されたのだろう。もう1人の教師・徳田周輔は東京大学医学部別課の卒業者である。

石黒の回想録にもどる。

荻野は明治15年(1882年)に好壽院を「卒業」し(この学校に卒業という制度があったかはわからないが、石黒は「卒業」と言っている)、医術開業試験に出願するのだが、女性の受験は先例がないという理由で受け付けられない。

そこで荻野は勿論、私(石黒)も大いに困却してしまい、しばしば衛生局へ参り、長与局長(長与専斎)はじめ当局者と議論もし懇願もして、遂に女子でも受験しうるようになり、明治18年になってその人(荻野)は前期・後期両度の試験に及第し、開業免状を得て、本郷に開業しました。これが女医の最初です。

医師を目指してから15年、34歳になっていた。

石黒が「明治18年になって」と言っているのは、明治17年(1884年)9月の前期試験に合格、翌18年3月の後期試験に合格したということを縮めて述べたものである。

この女医第一号の誕生について、東京女子医科大学の創設者・吉岡弥生は、「国家が女医を公許したのは、日本の女医史における明治維新のような重大な出来事で、それ以後新しい教養と技術を持った近代女医が輩出してくる可能性が開かれたことを意味し」と称賛し、しかしそれは「時代の新機運」の中でのことであると言う。荻野ひとりが孤高の闘いをしていたのではないということだ。

すでに明治11年(1878年)に東京府から、明治14年(1881年)には長崎県から、医術開業試験の女性の受験の可否について、内務省に照会があったという事実を吉岡は紹介する。長崎県からの問い合わせは、実際に受験希望の女性がいたことによるという。先に見たように好壽院の女子生徒は荻野一人ではなかった。また、初めて受験許可が出た明治17年(1884年)の試験は荻野のほかに4名の女性が受験している(合格したのは荻野だけだったが)。

荻野とほぼ同時に女医をめざした女性が何人もいたことを示して吉岡は「ひとり荻野さんばかりではなく、婦人の独立という当時の新機運に乗って女医を志した前記の人たちが、お互いの間に組織的な連絡はなかったようですが、寄せては返す波のように代わるがわる内務省に迫っており、また一方では、婦人の味方をする男子側の支援を得て、次第に女医公許の大勢をつくりだして行ったのでありました」と言う。

好壽院は医学士となった高階経本のために、あるいは経本をあてにして設立されたのだろうと先に述べた。その経本は東京大学医学部助教授にまでなったが、明治16年(1883年)9月、秋田の病院に月給200円で赴任した。経本の去った好壽院の学校機能は停止したようだ。