第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~

開業試験の進化と私立医学校の淘汰

『医制百年史』掲載の私立医学校数

ではこの医術開業試験を受けたのは誰だろうか。帝国大学医科大学(東大医学部)をはじめとする官立学校卒業者は無試験で免許が与えられた。公立医学校は、当初はこの医術開業試験合格を目的とする学校だったが、明治15年(1882年)の「医学校通則」により、甲種医学校卒業者は、官立学校同様に無試験で免許が与えられた。乙種医学校は今まで通り医術開業試験合格が必要だが、明治21年(1888年)までにすべて廃校となった(公立医学校については第9話~第15話を参照)。

医術開業試験の受験者は、ほとんどが官立公立医学校以外で医学を学んだ人々で、その教育を担ったのが私立医学校である。別の言い方では、この時期の私立医学校とは、医術開業試験のための受験予備校である。

官立・公立の医学校は、入学するためには最低でも中学校卒以上の学歴が必要である。一方、私立医学校では建前上は「中学校卒」を入学資格としているが、実際には学歴制限はなく、入学試験も行わない。修業年限を定めてあるものの、短期集中的に学ぶことも可能で、医術開業試験に合格すれば当然自主退学となった。長期の教育を受ける時間と学資がなく、手っ取り早く医師免許を取得したい人々は私立医学校に入学した。医術開業試験はその開放性ゆえに、明治青年の、たとえ貧しく生まれようとも、社会的上昇、立身出世の有効な手段の一つとなったのである。

私立医学校数は『医制百年史』に掲載されているが、これは文部省年報の各年版にある校数を一覧にしたものである。文部省年報には掲載されていない医学校もいくつか存在したので、『医制百年史』の資料も完全なデータであるとは言い難いが、校数増減の傾向は見て取れる。その傾向とは、医術開業試験の開始後に急増して、明治12年(1879年)にピークを迎えるが、わすが5年後の明治16年(1883年)には急減するという状況である。

私立医学校数の増減は、医術開業試験の制度変更に影響されているとみることができる。試験が始まった時点では、「受験者には落第も少な」いので、試験対策はたやすいとみて、開校が相次いだ。東京の私立医学校について言うと、設立者は、幕末から維新直後にかけて西洋医学を学んだ者が多い。田代基徳、松山棟庵、桐原眞節、長谷川泰、赤星研造は、東大医学部の前身である西洋医学所・大学東校で下級教員をしていた。松本良順は西洋医学所の頭取(校長)だった(第1話参照)。加納米次郎は京都府立中学、京都府立病院でドイツ語や医学を学んだ。

しかし医術開業試験が高度化すると、幕末維新期の医学知識では対応できなくなる。新しい医学知識も含めて伝授できる態勢が整えられるところだけが残っていく。それは、最新の医学を学んだ東京大学医学部の卒業者や院生・助手らに講義を担当してもらえた学校である。明治17年(1884年)以降は、後期試験の臨床実験対策に、実習を行える病院も必要となった。

私立医学校の急激な減少は「医学校通則」制定の結果でもある。公立医学校は明治10年代から急増するが、それらの卒業者もやはり医術開業試験に合格しなければ医師にはなれなかつた。それが、既に述べたように、明治15年(1882年)の「医学校通則」に準拠した公立医学校のうち、甲種医学校として認可された学校の卒業者は無試験で医師資格が得られるようになった。公立医学校が入学資格とした中学校卒業という学歴がある者にとっては、地元の甲種医学校入学が最も確実なルートとなったのであり、笈を負って遠路上京する必要はなくなったのである。

こうして明治16年(1883年)には私立医学校は壊滅状況となった。