第15話 公立医学校廃止の諸相(4)~北海道と沖縄の医学校~

北海道の医師

自前の医師養成機関がなくなっても医師数が伸び続けているのはなぜだろう。北海道で医者をしているのはどういう人なのか。

『日本杏林要覧』という本がある。明治42年[1909年]の発行で、全国の医師の名簿である。氏名の他に、医師免許取得方法、本籍地、生年、現住所が記載されている。

北海道の医師は855人が掲載されている。その本籍地を数えると、北海道306人、道外541人、不明8人で、道内出身者は36%にとどまる。他の県では、医師の8割以上が当該県を本籍地としている。つまりこの時代、各県の医師はほとんどが地元出身者だということだ。東京は例外的に、東京出身者と全国各地の出身者が混在している。

北海道は全国各地からの移住者によって建設された新世界であるが、医師も同様に全国各地からやってきたのだった。

道外出身医師の免許取得事由/道内出身医師の免許取得事由

どんな医師がやってきたのか。医師免許取得事由と年齢でカウントしたのが右の2つのグラフ。医師免許取得については簡単に説明しておこう。「従来開業・履歴」としたのは、主に漢方医が以前から医師として開業していた場合(従来開業)と、官省や公立病院等で教授・治療を行っていた場合(奉職履歴)に医師免許が与えられたケースである。明治政府は西洋医学を採用することにしたが、明治初期に圧倒的多数を占めていた漢方医を医療から締め出すことはできないため、彼らにも医療行為継続を許可したのである。「開業試験合格」は「医術開業試験」に合格して免許を得た者。試験予備校的医学校や、公立の乙種医学校、また医学講習所などに学んだ者である。「医学校・医専」は、学校を卒業すれば無試験で医師免許が取得できる医学校(公立の甲種医学校、官立高等学校の医学部、官公私立の医学専門学校)の卒業者である。「学士」は帝国大学の卒業者。明治42年時点では、東京帝国大学医科大学、京都帝国大学京都医科大学、京都帝国大学福岡医科大学の3校があった。

年齢は幅広い。道外出身者も道内出身者も、高齢医師は「従来開業・履歴」、つまり漢方医を中心とした旧タイプの医師が多い。道内出身医師は40歳代以下はほとんどが「試験」による医師である。そのほとんどはおそらく東京の済生学舎のような学校で学んで医術開業試験を突破したのだろう。

道外出身者も「試験」が多いが、「医学校・医専」と「学士」も一定数いる。「学士」は帝国大学卒業のエリート医師であるが、彼らが北海道にやってきたのは、公立病院の院長などのポストに招聘されたものである。「医学校・医専」の卒業者でも、公立病院の分院の院長や医長を務めている者もいる。

「従来開業・履歴」や「開業試験合格」の者にはこうしたポストは用意されていない。北海道にやってきたのもそれぞれの理由があったことだろう。72歳で陸別の開拓に挑んだ、徳島の開業医・関寛斎。北海道に理想郷建設を夢見た年下の夫に共感した、日本の女医第一号・荻野吟子。苦学の末30歳で医術開業試験に合格して利尻島の村医となった、斎藤茂吉の実兄で歌人の守谷富太郎。

『日本杏林要覧』の「樺戸郡」の新十津川には玉置安若と辰井文吾という2人の医師がいる。両人とも本籍は奈良県、年齢は50代半ば、医師免許は「従来開業」である。新十津川といえば、明治22年[1889年]8月の大水害に襲われた奈良県十津川郷の被災者2,500人が集団移住したところである。移住者の医療のために、あるいは医師自身も入植者として来道したとみられる。

同様の例。「磯谷郡」には6人の医師がいるが、うち4人は石川県出身である。年齢は55歳から80歳までとさまざまだが、医師免許取得は「従来開業」である。磯谷郡(蘭越町)は、明治30年[1897年]ころから石川県からの集団入植があったことで有名である。新十津川と同様に、入植者と共に医師も移住してきたのだろう。