第15話 公立医学校廃止の諸相(4)~北海道と沖縄の医学校~

給費生派遣による医師養成

廃止の理由は明らかでない。勅令第48号のために多くの公立医学校が廃校になったのも明治21年3月だった。この勅令は「医学校」を対象にしているのであって、「各種学校」に分類される医学講習所には適用されない。やはり生徒数の少なさによるコストパフォーマンスの悪さが廃校の第一要因と考えられる。

これに先立つ明治18年[1885年]、札幌県では医師志望者を他県の甲種医学校に給費生として派遣することを始めた。「県」が廃止されて「北海道」が成立すると、この派遣制度は「道」に受け継がれた。他県に教育を委託する方が安上がりであることに気づいた、というのも医学講習所廃止の背景にあるのかもしれない。

実は、「委託による医師養成」は、明治8年[1875年]東京大学に「普通医学教場」(のちに「別課」)として設置された医師速成課程の目的とするところだった。だから、自前で県立医学校を運営するのに並行して、あるいは県立医学校に代わる医師養成制度として、東京大学医学部別課に給費生を派遣する制度を採用する県もあった。埼玉県、長野県の例をすでに述べたが(第10話、第12話)、このほかにも茨城県、栃木県、群馬県、山梨県、三重県、福岡県にこの制度があったことが『文部省年報』などで確認できる。

東京大学医学部別課生徒の出身地別人数(明治16年度)

右表は『東京大学医学部一覧(明治16-17年)』で医学部別課生徒699人の出身地(正確には本籍地)を調べたもので、北海道出身者はわずかに1人を見出すにすぎない。

この生徒の氏名は「菅野晋」。前述したように札幌県で他県医学校への給費生派遣制度ができると、父親の菅野格は札幌県令宛に請願書を提出した。「自分の息子は東大別課に自費で修学している。今度給費生派遣の制度ができたが、東大別課生徒として給費生にしてほしい」と訴えた。

事情は異なるが、自費で東大別課に入学していた生徒をあとから県の給費生に認定した埼玉県の例を以前に紹介した(第10話)。しかし札幌県の場合は残念ながら菅野父子の願いは却下された。「この制度は甲種医学校へ派遣するのであって東大別課は対象にならない」という理由らしい。実はこの明治18年時点では東大別課は募集停止をしているから札幌県の主張ももっともであるが、それにしても杓子定規な裁定である。