第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

興廃を繰り返した山口県の医学校

山口県では医学校の設置と廃止が繰り返された。藩閥政府の中心勢力が、その出身県(長州)を特別扱いをすることはなかったようだ。

天保11年[1840年]萩に設立された「好生堂」が山口に移転して山口県立山口病院となり、これが更に三田尻(現・防府市)へ移転して山口県立華浦医学校となった。しかしこれは県の財政難のため明治10年に廃止されてしまった。その時の校長福田正二は私立学校としての存続を図ったが間もなく廃校となった。

山口県立華浦医学校「防府 写真集明治大正昭和」図書刊行会

山口県立華浦医学校
「防府 写真集明治大正昭和」図書刊行会

その後明治13年に山口県医学校(のち華浦医学校)として再興された。第9話で述べた「三業賦金」(風俗業から徴収する特別税)をあてにしての設立だったが、翌年からは地方税支弁となった。ところが明治15年に医学校通則が通知されると、甲種はもちろん乙種医学校の設置基準にも適合させるのは予算的に困難であるとして16年12月に廃止されてしまった。

萩では医師会と医学校を兼ねた「萩医学社」があったが、これを中核にした県立萩医学校を明治14年に設立した。しかしこれも県会で予算が認められず廃校となった。

ところが明治18年になって医学校設置の建議が県会で可決され予算案も通り、19年1月に開校する運びとなった。しかしこの頃になって、政府は公立医学校を整理する方針らしいという情報が伝わってきたので開校を延期していたところ、20年9月に勅令第48号が出て、山口県での医学校再々設置は幻に終わった。